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会報
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35号目次
加茂文子さんとその絵画を偲んで
相模原市 清水 弘
2000年ニュージーランドアイリス大会にて。「碧鳳」
のハンカチの額
花菖蒲と加茂家を愛した加茂文子さんが亡くなって早くも二年が過ぎました。私が女史と初めてお会したのは十数年前、加茂花菖蒲園にて行われた花菖蒲園経営懇話会の時でした。会合が終わった後、冨野耕治先生と共に加茂家の食卓にお招きいただき、ご主人の加茂元照氏と共に楽しく談笑させていただいた初対面の想い出が、今でも鮮やかに甦ります。
女史はご主人に負けない花菖蒲ファンであり、加茂花菖蒲園という最大の菖蒲園を陰で支えると共に、花菖蒲を題材とする作画を通じての貢献度からいっても、わが国の花菖蒲界の最大功労者の一人といえる方でした。何時であったか加茂荘の展示室に飾られたご自身の原画を見ながら「私の絵は全面が張り詰めていて、息を抜く部分がないと言われるの・・・」と仰っておいででしたが、後からご主人が「文子が絵を描き始めると体を壊してしまうことが多いので、余り描かせたくはない。」と呟いておられたことが心に残っています。 ご夫妻には二度ほど米国の花菖蒲大会に連れていっていただきましたが、旅行中も、絶えず周囲に気配りされ、時には脱線されているご主人を嗜めたりしていたことが思い起こされます。
私には絵画のことは良くわかりませんが、正確な描写と共に、その品種の持っている美点を最大限に生かす表現をしていたことはよく判ります。きっと、園経営においても同じような態度で従業員の方々の心の支えになっていたことでしょう。先の渡米の二回とも、女史の原画からとった絵皿やグッツが人気でしたが、後年になって単独で訪問した国々でも女史の描いた花菖蒲の絵皿等をよく見かけました。明治期に花菖蒲を題材とした版画や浮世絵が海外に出て評判となったように、女史の絵画も花菖蒲文化の近年の伝達者といえるのではないかと思います。
合掌:清水 弘