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 西田勇元会長を偲んで
    
         
                                    館林市 東 秀光  

 日本花菖蒲協会元会長 西田勇先生は、平成17年11月28日早朝逝去されました。享年95歳。ここに、謹んで哀悼の意を表します。
 西田勇先生の功績は、当協会におきましては、多大でありまして、その内容につきましては、先生が生前に執筆されました、「創立五十周年特別号」の会報(1983年)に、詳細に記述されております。先生は、大正12年、郷里熊本から一家をあげて、横浜市磯子へ転居され、父親の西田信常氏の指導のもと、ご家族そして一族で、「衆芳園」にて、毎年熊本花菖蒲の鉢植え陳列を一般公開しておりました。西田信常翁は、昭和5年6月、日本の花菖蒲研究のため来日された、ニューヨークブルックリン植物園のジョージMリード博士夫妻に、衆芳園の圃場に咲き競う熊本花菖蒲を見ていただき、ご覧になった博士に「世界一」と称していただいたそうです。これを契機に翌昭和6年に、東京日比谷公園に日本花菖蒲協会が発足されたのはご承知のことであります。
 西田信常翁の四男としてお生まれになった先生は、兄弟・そして、先生のご長男や、甥子さん達と共に、傳統に輝く「衆芳園」を永く護って参りました。このような功績で、西田勇先生は昭和58年秋、花菖蒲の栽培技術の向上、優良品種の保存と改良普及に依り、横浜文化賞の栄誉を受け、また、平成元年には日本花菖蒲協会会長に推されました。
 ここで、紙面をお借りしまして、私と西田先生とのご縁を記憶をたどりながら記述し、先生を偲ばせていただきたいと思います。
〔初めての対面〕昭和60年
 最新花菖蒲ハンドブックの末尾に全国の花菖蒲園が記載されておりましたので、当時の私は全ての花菖蒲園に照会し、リーフレットや品種名等を送付していただき勉強しておりました。そんな中、横浜市の衆芳園も気にとまりまして、肥後系の品種を収集中だった私は、白地に紅覆輪の六英花「舞姫」が分譲いただけるか否か照会いたしました。早速、先生から手紙で、「舞姫はありますが、よろしかったらお分けできます」と自筆でのお返事をいただきました。(衆芳園で最初の思い出の舞姫は今も、拙宅の鉢で毎年、見事に咲いております。)他にも、品種リストがありましたらとお願いしたところ「傳統に輝く衆芳園の熊本花菖蒲」が送られてまいりまして、衆芳園のなりたちや、一族でご苦労したこと、熊本花菖蒲の品種保存、銘花の作出の数々が記載されており胸が熱くなりました。
 当時、私は、趣味で集めた花菖蒲も庭がないため、妻の実家の畑に植えさせてもらい、自宅のベランダには、素焼きの鉢を置いての栽培でしたので、一日も早く土地を購入したいとの夢がありました。西田先生とは、その後、何度も何度も、手紙で栽培の疑問、質問をお聞きしたり、電話にてお話する機会が続きました。館林市には、世界一と称する樹齢八百年を超えるヤマツツジをはじめ大小一万株が植栽されていますつつじが岡公園があり、ここには館林花菖蒲園もありますので是非一度お越しいただき、お会いし、案内したいのですがと、ご連絡したところ、連休中に子息の休みに合わせ、来館できますとのお返事がいただけました。花菖蒲の先生がお見えになるとは、内心、皇族のご一家を出迎えるような気持ちで感激し、当日を待ちました。(以後20年間にわたり師としてご指導いただくとは思いもよらぬことでした。)昭和60年5月3日、私は、東北道館林インター料金所ゲート近くで、先生をお迎えいたしました。初対面で、電話の声だけで、お顔もわからず、緊張いたしました。連休で渋滞し、しばらく待っていたところ、ワゴン車がゆっくり通りすぎ戻られましたので、近づいて「西田さんですか」と尋ね、会えることができました。西田さんのご家族がいわれるのには、花菖蒲をやられているかたが、こんなに若いのかと驚かれていました。私は、17歳から花菖蒲を栽培し、この日も32歳でした。早速、自宅へ案内し、初対面の挨拶を改めていたしました。この日、お見えになられたのは、先生ご夫妻、次女とそのお子様二名、次男の、六名でした。この日は、皇后様の祖父の出身地、館林正田家の門前で記念撮影、正田邸のお庭にも許可を得て入らせていただき、花菖蒲、藤棚の前でも記念撮影いたしました。満開のつつじが岡公園へは、船で行き、帰りには、館林花菖蒲園の生育状況を観ていただき、出来は上々ですと褒めていただきました。この日、ご家族は、茂林寺を拝観後、帰途につきました。

〔衆芳園への初訪問〕昭和60年
西田先生とは、質問のご指導は全て手紙でしたので、先生から、「鉢でおやりになるのなら私共にまず来てください」と薦められました。この年6月16日、妻と子供を連れて、車で磯子に向かいました。この日は、日曜日で、衆芳園は、バスや一般の見学者で込み合っておりました。お忙しい中、先生にやっとご挨拶できたところ、まずは園の圃場から先に見てくださいといわれ、広い園内を見て歩きました。次に、室内陳列場に通された瞬間、均整の取れた鉢植えが整然と並び、肥後花菖蒲の真髄は、鉢植え陳列だと、胸に焼きつきました。この思いが今でも新鮮に蘇えってきます。屋外の会場から室内が見とおせない所で、観賞者が部屋に入りますと、美の感動を覚え、さらに説明を加えることでこの花は生きている、人にたとえれば、精神修養を語りかけているのだと。そこで、先生は「刻々と動く花に静けさが在り、その静けさの中に動きを見出します。私はこの花だけが天から、自然から与えられた気高いものとして、次のように表現いたします。動中静在り而して静中動在りと」述べておられます。
この日の先生は、連日朝早くから展示し、お疲れだったことと思いましたが、たくさんのかたの質問に答えられ、一年間の丹精の結果を身をもって物語っておられるようでした。

〔衆芳園への二度目の訪問〕
 昭和六十一年六月一七日(水)昨年見せていただいた展示が、いまださめないので、先生に陳列に最高の日をお聞きし、今年も見る機会を得ることが出来ました。当日は休暇をいただき、妻と二人で訪問いたしました。先生は、滝頭のご自宅まで、私どもを案内されまして、奥様とも歓談、最高の歓待をうけてしまいました。また、品種リストにない花菖蒲の苗など、たくさんのおみやげを頂戴し帰途につきました。

〔西田先生二度目の来館〕昭和62年5月2日
 この年、三月には、念願かなって、私の新居が完成、庭も広く購入できました。実家からの苗もすべて移植し、鉢植えも同じく、引越しできましたので、早速、西田先生に転居のお知らせと、これからの育成の助言、熊本花菖蒲の鉢植え陳列を本格的にご教示願いたいとの手紙を出しました。ご返事の内容は、この陳列法は、お客様にご足労かけて花を観賞していただく作法で、花の自慢や、花を見せるということではなく、謙虚になること、自分の花を見ていただくので、必ず観賞後、接待の意味でのお茶やお菓子をおだししてください。それができるのなら、おやりなさいとの、お言葉をいただきました。さらに先生は、新築祝いと、東さんの花菖蒲を見せていただきたいので、訪問しますとのことでした。五月二日は、先生ご夫妻と、ご長男の三名がお見えになりました。丁度、満開を迎えたつつじが岡公園、茂林寺、正田邸をご案内し、館林花菖蒲園では、今年もよく咲きますよと褒めていただきました。この日は、夜遅くまで、花菖蒲の育成方法をご教示いただきました。陳列に必要な道具や、鉢の数は奇数にすること、葉姿が大事なこと、紫の花が最上であることなど、奥が深いと感じました。

〔衆芳園への三度目の訪問〕昭和六十二年六月十日(水)
 休暇がとれたことから、妻と長女を連れて、急遽、西田先生宅へ、新築祝の「内祝」をお届けに訪問いたしました。この日は、午後一時三十分からラジオ日本で、衆芳園からの生放送がありまして、先生のインタビューが偶然聞くことができました。放送後、先生からは、陳列法を直接目のまえにして、質問・勉強することができました。この日も貴重な品種をお聞きし、後日の分譲をお約束いたしました。

〔衆芳園への四度目の訪問〕平成元年六月十六日(金)
 昨年は、衆芳園に伺うことができませんでしたので、今年こそはと、休暇をいただき、妻と二人で衆芳園へでかけました。陳列の花菖蒲を前にして、西田先生は、東さんが今日、来るのがわかっているので、二本立ちの花梗を思いきって先程一本におとしました。切るのが惜しいのがまだ、何鉢かあるのですと、いっておられました。私も後ほど、先生の言葉が理解できたのは、実際に、自宅で鉢を並べてみてでした。お客様をお通しするまえに、襖の引き手の高さにあわせて、一本にするのですが、切り落とすほうの花のほうが、たいていが立派で、迷うのです。切るときには心の中で、いつも、申し訳ないと声をかけて、切っております。この日も、夕刻まで滞在し、陳列の心得などを、ご教示いただき、帰途につきました。

〔西田先生とのお別れ〕
 衆芳園への訪問は、翌、平成2年6月16日に館林市の知人四人と観賞したのが最後となりましたが、その後、西田先生宅へは、二回お伺いし、私が、先生に教えていただいた方法で、熊本花菖蒲の鉢植え陳列法を、自宅で行なっていること、平成一三年からは、旧子爵秋元別邸広間にて、「館林花菖蒲花正会」により、お座敷鑑賞会を開催して一般公開していることを、お伝えし、持参したビデオなども見ていただいて批評していただきました。テレビに、私が放映された時には、先生宅に電話をしたところ、¬説明もどうどうとしてよかったですよ、これからもおやりなさい」と、励まされました。先生のご指導のもとで、館林市での御座敷鑑賞会も、五回開催できましたが、西田先生には、晩年お会いすることもなく、館林市での開催も一度もご覧になることなく他界されました。
 先生の訃報は、ご子息からご連絡があり、平成17年12月1日、妻と一緒に横浜の久保山霊園告別式場でご対面し、最期のお別れをすることができました。
十代の時から、私一人の趣味で始めました花菖蒲栽培も、ご縁があって、西田先生のご指導、そして一族のみなさんの見守る中、傳統ある花菖蒲の育成、鉢植え陳列が、館林花菖蒲花正会(正田啓子会長)により再現、開催できますことを、会報の紙面をお借りしまして、ご報告し、先生のご冥福を会員一同、お祈りする次第であります。

西田勇先生  横浜市港南台霊園安国寺に葬る。

館林市の秋元別邸の和室に整然と並べられた熊本花菖蒲。西田先生の暖かなご指導と、東氏のたゆまぬ努力の結晶であった。 東 秀光氏
平成18年6月 秋元別邸にて