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 日本花菖蒲協会の歴史

      編 集 部


   日本花菖蒲協会創立七十周年記念祝賀会を機に、協会の歴史編さんを依頼されました。既に終戦後の再発足当時の会員はおろか、その後の高度成長時代ころの歴史を語れる方も殆どいないような状況でしたが、幸いにも協会の会報「花菖蒲」が戦後のものは全て現存しており、当時の事柄が明確に記されていましたので、そのおかげで作成することができ、あらためて会報の大切さを知りました。  

    この歴史年表を見ておりますと、本協会が多くの諸先輩方のご尽力により発足し、連綿と今日まで受け継がれてきていることに、深い感慨を覚えます。

   本会は昭和5年に米国のアイリス協会のリード博士の来日を機に創立されましたが、実際にはその頃横浜の衆芳園により広まり出した熊本花菖蒲の豪華な美しさに人々が心酔したため、高名な先生や育種を志す人をはじめ多くの会員が集まったようです。戦後はこの熊本花菖蒲(肥後系)を中心にまさに時代の花であり、戦後の高度成長のなかで日本中に多くの花菖蒲園が造成され、平尾先生をはじめ戦前から花菖蒲に取り組んでおられた育種家が数多くの新花を作出し、戦後の花菖蒲ブームを盛り立ててきました。

    しかし、近年の趣味園芸の多様化に伴い、趣味家や育種家は減少し、花菖蒲は個人で楽しむよりも花菖蒲園に見に行く花になりました。

   花菖蒲は桜や紅葉、菊などとともに日本の季節をあらわす植物として、日本人の心のなかに深く浸透しており、他の植物には無い優位な位置にありますが、理事長の巻頭のことばにもありますように、今後どのような形でその優位な位置を保っていけるか、真剣に考える時代にさしかかっていると思います。

   この年表を見ながら、この園芸植物が、そして本協会が、今後どのような方向に進むべきかを考えていただければと思います。

日本花菖蒲協会の歴史                                     2001年12月作成
西暦・和暦 協 会 の 活 動 会員の個人的な活動、出来事
1928・S3    昭和の初め頃、花菖蒲は江戸時代以来の花であり、三好学博士や宮沢文吾博士のようなこの花に詳しい研究者も、小高園や衆芳園のような熱心な栽培家もいた。また明治以降盛んに海外に輸出され、海外でも高い評価を得ていた。しかし大正から昭和初期にかけて堀切の花菖蒲園が相次いで閉園し、明治維新後の欧米文化の発展と共に、花菖蒲は旧い時代の文化として半ば忘却され、一般市民の眼にふれることが少なかった。このような時代のなか、古くより花菖蒲の研究を行ってきた東京市の井下清公園課長ならびに市川政司係長は、わが国固有の名花の国外流出と優麗なるその姿に感動し、東京日比谷公園にて花菖蒲の一大陳列会を催した。知らず忘れていた来園者は今更のごとく驚異の眼をもってこの花を迎え、たちまちにして知れ渡った。ことに花好きの池田喜兵衛氏は、その優秀なる花姿にショックを受けた。そして、この井下、市川、池田の三氏が日本花菖蒲協会設立に向けて尽カすることになった。
1930・S5  ニューヨーク・ブルックリン植物園園長で米国アイリス協会のリード博士(Dr.G.M.Reed)が来日。日本のアイリス、ことに花菖蒲の徹底研究と品種の収集のため来日した。このことが強い刺激となり、花菖蒲が再認識され、各方面より栽培復興の意見が勃然として起こり、先の井下清、市川政司、池田喜兵衛らに加え、理学博士の三好学、西田衆芳園園主・西田信常、堀切小高園園主・小高伊左衛門らが中心となり、日本花菖蒲協会が設立された。
第1回観賞大会 昭和5年6月20日 堀切小高園、堀切園、吉野園出席者約300名陳列 会場日比谷公園陳列会場にて、7月10日より30日まで700鉢展示、熊本花菖蒲が初めて展示された。
1930年6月、リード博士夫婁が米国アイリス協会として日本に来られたので、堀切その他当時盛んであった方面を案内した。その際、博士が日本のアイリス・ソサエティーの幹部に逢いたいと言われたが、未だ本格的な会は結成していないとも言えないので、博士夫妻が来朝された機会に参加して頂いて、日本を代表する協会を設立するということにしてその快諸を得て、急遽、規約を定めて発会式と最初の講演会を小高園で開いた。(会報10号より)
1931・S6 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」創刊号発行
会長空席、副会長に三好学氏、名誉顧問に犬養毅氏、顧問に西田信常氏、藤懸静也氏、白井光太郎氏理事長に池田喜兵衛氏、理事に井下清氏、市川政司氏ら(以降、日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」は、戦前は毎年発行され、昭和19年の第14号まで発行された。)
 
1933・S8   1933年、堀切の小高園、文部省から史跡名勝天然記念物保護法により「名勝小高園」の指定を受ける小高園は江戸時代の天保年聞より堀切にて花菖蒲園を開園した、わが国最初の花菖蒲園。園主伊左衛門は代々襲名。しかし、この当時の小高園は既に往時の面影はなく、衰微が甚だしかった。これも国で指定した理由の一つであった。
1936・S11   1936年、理学博士・宮沢文吾氏が農林省の委託として神奈川県農事試験場で行った品種改良と研究結果を「花菖蒲品種改良報告書」で発表、300晶種の新花を紹介。同年、西田衆芳園・西田信常氏、「実際園芸」誌に「伝統に輝く熊本花菖蒲の品種と栽培」を掲載
1938・S13   1938年、協会顧間、西田信常氏逝去。氏は父貞幹氏とともに大正末期熊本より横浜に移り、「衆芳園」を開業し熊本花菖蒲の普及に尽力した。
1939・S14   1939年、目本植物学会に大きな功績をもたらし、桜の研究者としても著名な当協会副会長、理学博士・三好学氏逝去。
花菖蒲では大正10年に「花菖蒲図譜」を発行した。
1940・S15   1940年、池田喜兵衛氏、雑誌「農業世界」12月号付録として「花菖蒲の作り方」を発行。中に花菖蒲の盆栽作りを紹介。
1940年頃、葛飾の小高園が経営困難になり、東京市の公園課長であった井下氏が都市公園として名勝の最低限の保存を計画したが、小高氏との意見衝突がありまとまらず、名勝は保存することができなかった。
1942・S17   1942年、堀切小高園閉園。戦時中の食糧難から水田化を余儀なくされ、100年来の歴史を閉じた。
1945・S20 (太平洋戦争では、数多くの花菖蒲品種が失われた) 終戦後、衆芳園・西田一声氏、戦後の混乱のなかから方々へ離散した品種を再収集し、いち早く「友鶴」などの名花を作出しはじめる。
1952・S27 戦後活動を休止していた日本花菖蒲協会は、8月、伊藤東一氏等の協カにより、目比谷公園松本楼にて総会を開き再発足した。(1983協会50年誌P35より)  
1955・S30 戦後初の花菖蒲協会会報「花菖蒲」が発行される。複巻1号、通巻15号 1955年、伊藤東一氏逝去。氏は東光ナーセリー主人として、花菖蒲以外にもキク、ダリヤ、グラジオラス、スイセンなど様々な園芸植物を育種した。晩年、東京花菖蒲園の建設に協力し、氏の作花等数万本を無償で提供した。
1956・S31 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第2号発行
会長に福羽発三氏。日比谷公園にて花菖蒲陳列会再開
京王電鉄KKと日本花菖蒲協会との協力により、京王多摩川に東京花菖蒲苑が開園した。この園は昭和36年に「京王百花苑」と改名された。
1956年、平尾秀一氏が自作の新花を協会会報に初めて発表、以降1960年の会報5号まで自作新花を紹介したが、それ以降も改良は続けられた。作花は160品種にせまる。
1957・S32 日本花菖蒲協会会報「花萬蒲」第3号発行
日本橋三越本店の花菖蒲陳列会に協賛出品を始める。(この頃、戦後の復興に伴い、花菖蒲は益々隆盛の機運にあった。)
1957年、冨野耕治氏が、協会会報に伊勢花菖蒲の古花と自作の新花を初めて紹介。
1958・S33 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第4号発行 1958年、花菖蒲の育種家光田義男氏が、協会会報に初めて自作の新花を紹介。以降1997年まで新花を発表した。
1960・S35 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第5号発行
光田義男氏を中心として、日本花菖蒲協会東海支部が発足
1960年平尾秀一氏、加島書店より「花菖蒲」を発行
1960頃、光田義男氏、名古屋の名鉄デパートにて「熊本花菖蒲展」を開催。
1961・S36 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第6号発行 1961年理事長、市川政司氏逝去、会長、福羽発三氏逝去 市川政司氏は、井下氏と共に日本花菖蒲協会の創立以来、花菖蒲発展のため多大な功績を残した。戦前から花菖蒲の浅鉢作りを試みられ、浅鉢盆養作りを完成させた。
1962・S37 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第7号発行
名誉会長に明治神宮の甘露寺受長、会長井下清氏、理事長平尾秀一氏
同年7月、協会鑑賞旅行にて山形県長井市あやめ公園を視察、長井あやめ公園に古くから伝えられた品種群を「長井古種」として認知した。
日本花菖蒲協会東京支部として「東京菖蒲会」が発足
1962年吉江清朗氏、宮沢文吾氏の品種などをもとに花菖蒲の改良を始める。これらは1975年頃に命名の段階となり、極早生の品種が主で後に吉江系と呼ぱれた。
1962年「明治神宮御苑花菖蒲図譜」発行
1963・S38 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第8号発行 1963年、静岡県の加茂花菖蒲園、花菖蒲の品種改良を行い始める。
1963年、協会顧問の冨野耕治氏「本邦産アヤメ属植物とくにハナショウブに関する育種学的基礎研究」三重大学学芸部より発行。氏の多年にわたる研究を公刊。
1964・S39 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第9号発行  
1965・S40 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第10号発行
神代植物園花菖蒲展示を協賛
京王百貨店における花菖蒲展を協賛
 
1966・S41 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第11号発行 1966年、冨野耕治氏、日本の花シリーズ「花菖蒲」を発行
1967・S42 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第12号発行 1967年月、米国の花菖蒲育種家、W.A.ぺ一ン氏来日。静岡県の加茂花菖蒲園、北海道の月寒学院花菖蒲園等を視察。 同年7月の花菖蒲協会総会にて、名誉会員に推挙された。
1967年栗林元次郎氏、平尾秀一氏、「花菖蒲大図譜」の製作に着手。栗林元次郎氏は札幌にある北海道農業専門学校、八紘学園の創始者。三越百貨店の花菖蒲展示即売会より花菖蒲に興味を持ち、学園内に2hrに及ぶ大花菖蒲園を造成した。「花菖蒲大図譜」の製作では、スポンサー的な立場に立ち平尾秀一氏と共にこれに当たった。
1967年頃、平尾秀一氏は干葉県市原市の牧野善作氏の畑を借りて改良に着手、「栄紫」「春の海」など平尾牧野系の品種が生まれた。
1968・S43 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第13号発行  
1969・S44 パリ国際草花展に花菖蒲を出品、静岡の加茂花菖蒲園から3月に50品種900株を空輸、次いで中村元義理事が鉢仕立て200鉢を空輸  
1970・S45 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第14号発行  
1971・S46 日本花菖蒲協会監修朝日新聞社刊「花菖蒲大図譜」完成 1971年11月9日、「立波」「友鶴」など多くの肥後花菖蒲を作出した西田衆芳園・西田一声氏逝去
1972・S47 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第15号、創立40周年記念、花菖蒲大図譜完成記念号発行  
1973・S48 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第16号発行
会長に南部襄吉氏、理事長平尾秀一氏
1973年8月8日 日本花菖蒲協会の生みの親である井下清会長逝去、享年89歳
1973年、石坂晋作「花菖蒲入門」(花菖蒲協会監修)発行
1975・S50 日比谷公園にて毎年行われてきた花菖蒲展示会がこの年以降中止される。 1975年、会長南部襄吉氏逝去、享年87歳
1977・S52 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第17号発行
旅行会7月1.2日、宮城県石巻〜山形長井あやめ公園
1977年2月17日、栗林元次郎氏逝去。
同年、三池延和氏、日本花菖蒲協会代理部として、以降花菖蒲の品種保存、種苗提供を行う。(会報17号記述より)
1978・S53 旅行会7月1.2日、兵庫県三田市、永沢寺花菖蒲園  
1979・S54 新会長に平尾秀一氏就任
三越百貨店での展示即売会がこの頃中止となる
旅行会7月1.2日、福島県母成高原花菖蒲園ほか
 
1980・S55 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第18号発行
名誉会長に伊達巽氏也
旅行会、6月19.20日、伊豆修善寺
1980年加茂花菖蒲園「花菖蒲銘花集」を刊行し始める。
アメリカ農務省のW・アッカーマン夫妻来日
1981・S56 旅行会7月6.7日、宮城県南方町、新川堤 1981年「最新花菖蒲ハンドブック」発行平尾秀一・加茂元照著 誠文堂新光社
1982・S57 東京都神田神保町のタキイ種苗にて、花菖蒲展を開催 昭和58年まで続く。
旅行会、7月12〜13日、毛越寺、阿仁町
 
1983・S58 日本花菖蒲協会会報・創立50周年記念号発行
旅行会京王百花苑、協会代理部保存園
1983年、加茂花菖蒲園にて花菖蒲園経営者や育種家の意見交換の場として「花菖蒲経営懇話会」(後に花菖蒲研究会と改名)を開催。以来年1回、平成11年まで17回行われた。
1984・S59 アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドから花菖蒲愛好家が団体で来日、各地の花菖蒲園を見学し協会と友好を深めた。  
1985・S60 旅行会7月1.2日、新潟県、笹川邸、瓢湖、新発田市  
1986・S61 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第20号発行
名誉会長に高澤信一郎氏、顧問に冨野耕治氏
 
1988・S63 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第21号発行
名誉会長に福島信義氏、会長に西田勇氏、理事長角田公明氏。
旅行会、6月23.24日、奈良県滝谷花菖蒲園
1988年6月8日、戦後の日本花菖蒲協会を先導された平尾秀一氏逝去、「舞扇」をはじめ多数の品種を作出し、花菖蒲協会のみならず日本の園芸界に多大な功績を残した。
1989・H1 旅行会7月8.9岩手県毛越寺、花巻市、石黒邸  
1990・H2 旅行会6月11.12日、兵庫県山崎花菖蒲園、大阪花博  
1991・H3 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第22号、創立60周年記念号発行。旅行会6月25.26広島県三和町、島根県高木花菖蒲園 1991年6月、アメリカ花菖蒲協会のC・マクウェン夫妻来日、各地を視察すると共に、4倍体花菖蒲を紹介する。
1992・H4 日本花菖蒲協会会報r花菖蒲」第23号発行 旅行会6月22.23日、宮城県一迫町、多賀城市公園 1992年2月12日、花菖蒲研究家の冨野耕治氏逝去(享年81才)、「美吉野」「綴錦」など多数の伊勢系新花をのこすと共に、花菖蒲の遺伝学的研究の基を築いた。
1992年10月7日、押田茂夫氏逝去。伊藤東一の後を継ぎ、京王多摩川にて花菖蒲園経営に尽カした。「雲井の雁」「葉隠」などの新花を残す。
1993・H5 旅行会6月16.17日、茨城県潮来町、干葉県佐原市水生植物園  
1994・H6 旅行会6月30.1日、宮城県南方町花菖蒲の郷公園、毛越寺  
1995・H7 葛飾区郷土と天文の博物館で行われた「特別展、堀切菖蒲園」に三池延和氏を中心として協力。以降、花菖蒲の文化歴史と共に江戸以来の古花の品種保存の重要性が再認識される。
旅行会5月26日、静岡県加茂花菖蒲園
 
1996・H8 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第24号発行
会長に加茂元照氏、副会長に角田公明氏、理事長に一江豊一氏、顧問に薮谷勤氏、岩科司氏 旅行会6月23.24日、砺波市頼城の森
 
1997・H9 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第25号発行 旅行会6月9.1O愛知県岡崎市東公園花菖蒲園  
1998・H10 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第26号発行
旅行会6月24.25日、福島県会津高田町、矢吹町アイリスファーム
 
1999・H11 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第27号発行
日本花菖蒲協会編集にて、NHK趣味の園芸「人気晶種と育て方ハナショウブ」発行
旅行会6月22.23日、山形県長井市あやめ公園
1999年、清水弘氏、自作新花を協会会報に紹介しはじめる。
2000・H12 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第28号発行
名誉会長に加茂元照氏、会長空席、副会長に角田公明氏、一江豊一氏、理事長椎野昌宏氏。
旅行会7月9.1O日、青森県鯉艸郷、三内丸山遺跡
2000年7月、光田義男氏逝去光田系とも言える600余種の優良花を作出し、花菖蒲の発達に大きな功績を残した。
2001・H13 日本花菖蒲協会会報「花菖蒲」第29号発行
同年6月、神奈川県立フラワーセンター大船植物園にて、日本花菖蒲協会花菖蒲展示会が行われる。
同年10月28日、東京日比谷松本楼にて、創立70周年記念祝賀会開催。
旅行会7月14,13日、札幌八紘学園、石山邸、芽室町