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 さいはてのノハナショウブ

   加茂花菖蒲園 永田 敏弘


天塩町にて
 ノハナショウブは遠いむかし、まだ日本が大陸と地続きだった三千万年以上も前、大陸の極東部、つまり現在の日本に当たるところで発生したようです。その後日本にあたる部分は大陸から離れ、時には大部分が海没する時代もありましたが、次第に南下することで氷河から免れ、シベリア極東部の自生地などより、はるか昔からのノハナショウブの子孫が生き残って来ているのではないかと考えられています。
 植物の変異は、新しく分布を広げた地域よりも、スピーシーズ・センターと呼ばれる、その植物がもともと発生し、長期間にわたり生息している場所で発生しやすいということですが、ノハナショウブの場合も、日本の各地で微妙に異なったタイプが自生していたり、東北地方で変異が多く見つかるのは、こうした理由によるものではないかとも考えられています。
 そして北海道のノハナショウブは、一度氷河により絶滅した後に分布を広げて行ったものであるから、変異が殆ど見られないのではないか。ということが以前から言われていましたし、事実北海道でノハナショウブの変わり花が見つかったという話しも聞いていませんでした。今回の旅行は、それを自分の目で確かめる旅でもありました。
 七月十六日。新千歳空港に降りて、まず訪れたのは夕張の長沼花菖蒲園でした。以前から一度訪ねてみたいと思っていた園で、三ヘクタールという、本州では考えられないくらいの広さを持ち、さすが北海道の花菖蒲園という印象を受けました。広大な畑一枚がそのまま花菖蒲で埋まったという感じで、これほどの園を社長の高橋俊明氏とあと数名

長沼花菖蒲園
八紘学園花菖蒲園
の方々で管理しておられると伺い驚きました。管理も行き届き、列植えのなかに混じり花などまったく見られません。
 品種数も六百五十余品種以上が栽培されており、中には高橋氏自慢の自作品種も見られました。そして広い園内の一角には、これらの品種を一ヶ所に集め、アイウエオ順にならべ、品種の見本園としてお客さんに見ていただいたり、高橋氏自身、自分の園の花を確認するための圃場なども設けられ、広大かつたいへん内容の深い園でした。
 次に高橋氏に案内していただき、札幌の八絋学園花菖蒲園を訪れました。満開を少し過ぎたところでしたが、二ヘクタールという、これまた広大なスケールとその出来の良さ、また黒い土壌に雑草など全く見当たらず、整然と花菖蒲が植えられている美しさに感動しました。この園の管理者の馬場洋二氏は、まだ若干の三十歳。五年前に石山貞吉氏から引継ぎ、園を管理されておられますが、学園の実習生さんたちを指導しながら、これほどの広い園の面倒を見ておられるのかと思うと、ほんとうに頭が下がる思いでした。



 翌朝、同行の清水氏と馬場氏と園を回り、及ばずながらも簡単な品種確認を行い、石山氏に八絋学園の栗林石庭や、氏の自宅の石楠花を拝見させていただいた後、北をめざして車を走らせることになりました。事前の調査で、稚内周辺の原生花園に、ノハナショウブが多く自生しているという情報をつかんでいたのです。
 留萌から日本海沿いの道に出て北進する途中、国道脇の草地に点々とノハナショウブが見られるようになりました。ときにはかなりの密度で群生している場所もあり、そういう場所では車を止めて写真を撮り、変わり花がないか観察し、また車に乗り込むといったようなことをくり返しながら、北へ向かいました。



 変異というのは遺伝的には劣勢で、大群生ではその性質は消されてしまうことが多く、小群生の方がその割には変異が見つかる確率は高いと清水氏は話されるのですが、これだけ生えており、その度に車を止めるのは危険でもあり、北へ向かうに従って雨も降り出して来ていたので、それは止めました。

 悪く言えばわき見運転で、それも高速ですから非常に危ないことをやっているのですが、民家もまばらで車も少なく、道も広いので、そんなに飛ばしているようにも感じません。そんな感じで初山別町近くまで来たところ、「あ!」と二人同時に叫んで私は車を路肩に止めました。路肩の溝にピンクの花が咲いていたのです。急いでかけより近づいてみますと、それはややくすんではいましたが、かなり美しいピンクの花でした。野生にしては大きな花で、花形も良く整っています。昨年青森でみつけたタイプと同じで、普通種の紅紫の花色が薄くなった感じの花です。北海道にノハナショウブの変わりものは無いと思っていましたが、以外にも早く見つかったことに、この先でも見つかるのではという期待を感じました。しかし、「でもこの一株だけだったりして。」と言う私に、「その可能性は多分にありますね。」と清水氏が付け加えました。

 天塩の町も近くなると、いくらかまた建物がまた見えるようになりましたが、やはりここまで来るとさいはてのイメージを感じます。造成工事などで土が掘り返されているところは、濃い茶色の泥炭(ピート)が露出しています。ここでまた国道の脇に大きなノハナショウブの群落を見つけ、むりやり近づき写真を撮りました。無数に咲き乱れる花を前に、私は写真を撮ることだけを考えましたが、例えば白花とか、一見しただけでわかるような変わり花は見られませんでした。

 天塩の町を抜けると、国道脇にノハナショウブは見られなくなりました。サロベツ原野にも咲いてはいるのですが、大群生と呼べるような場所はありませんでした。サロベツ原生花園の中心部分にあるビジターセンターに、エゾカンゾウと共にノハナショウブのタネが売られていたのが印象に残りました。この広大な原生花園は、エゾカンゾウの咲く原野の後ろにそびえる利尻岳で有名ですが、今日はどちらも見られません。茫漠とした天北原野は風が強く、気温も十四度と肌寒く、夕方にもなって来たので、宿の方へ向かいました。

 次の日の朝、もう一度サロベツ原野をまわったあと、オホーツク海側の浜頓別町にあるベニヤ原生花園に向かいました。宗谷丘陵を横切り、猿払川の源流に近い所を通る道で、山のズリ場ではアンモナイトの化石も見つけましたが、海岸地帯の草原にあれほど自生していたノハナショウブは、山間部では日当たりの良い草地でも見られませんでした。
 ベニヤ原生花園は、クッチャロ湖と北オホーツク海の間に挟まれた、約三三0ヘクタールの広さの海岸砂丘で、ミヤマオダマキ、コケモモ、クロユリ、エゾカンゾウ、ウメバチソウ、ハマエンドウ、スズラン、ワタスゲ、ハマナスなど約一00種類の花が春から秋にかけて見られます。
 海岸沿いの砂丘には、浜辺の植物、砂丘の内陸側にはハマナスやエゾカワラナデシコが咲き、砂丘に続く草原にはエゾカンゾウ、ヒオウギアヤメ、ノハナショウブなどが自生しています。ヒオウギアヤメもわずかに残り花が見られましたが、この時期の主役は何と言ってもノハナショウブで、散策道の両側に延々と咲いていました。
 それがまた大群生で、他の植物と共に生えてはいますが、こんなに群生していて連作障害にならないのかと、まじめに考えてしまうほどでした。まさに天然の花菖蒲園といった感じです。海からの冷たい風が吹きつけ、花もかなり痛んではいましたが、今が最盛期のようでした。私はまだノハナショウブの自生地を何ヶ所も観察したわけではありませんが、これほどの群落は珍しいのではと思いました。 「何の花ですか、すごいですね。」夢中で写真を撮る私に、私より少し年下の人が声をかけました。「ノハナショウブです。こんなに咲いているところは無いですよ。」カメラのファインダーをのぞきながら、私はそう答えました。
ベニヤ原生花園 ノハナショウブ草原と写真奥の砂丘との間に頓別川が流れ,
砂丘の向こうには北オホーツクの海が広がっている。

 宗谷岬で昼食を取り、そこから帰りの稚内空港まで車を走らせる途中、空港前の海岸の草原でもノハナショウブが群生していましたので、車を止め草原を歩きました。天気も今日になってやっと回復し、サハリンに続く海と右手に宗谷丘陵、さいはての地に咲くノハナショウブは、また格別の眺めでした。この場所は稚内空港からもごく近く、お金があるなら本州中部の高原で数少ないノハナショウブを探すよりも、一っ飛びに飛行機でここまで来た方が手っ取り早いのではと思ったほどでした。また、時間の都合で探すことはできなっかたのですが、稚内空港周辺には、探せばいたる所でノハナショウブが観察できるのではないかと思いました。

 今回の旅行で観察したノハナショウブの多くは、海岸砂丘の内側に広がる草原地帯に生え、エゾカンゾウや、ヒオウギアヤメ、カキツバタなどと共に自生ているようでした。そのなかでも、靴のまわりにじわっと水が染み出すような、ほんの少しだけ湿った場所に大群落が見られ、やはりこのような環境がノハナショウブは好きなようです。また、自生地ではある程度の乾燥地帯でも生育できる適応性はありますが、内陸部では見られず、海岸に付随した草原地帯の植物であるという印象を受けました。
 花は総じて濃紅紫色で、青森県に自生するものとよく似ています。花も葉も本州中部に自生するものに比べやや大柄、草丈も草原の自生地では五0センチ前後です。花形のよく整った個体が多く見られ、中には園芸品種より、よほど洗練されていると感じられる個体もありましたが、やはり色彩の変異は、例えば本州中部に自生するもののような微妙な色彩の違いもなく、地域的にやや薄い、濃いの差はありましたが、同じ場所での色彩の濃淡の変化は少ないようでした。しかし日本海側の初山別町でピンクの色変わりを発見したことからすると、変異が全く見られないというわけでもなさそうです。また雌蕊が白色に抜ける程度の色変わりや、内花被がやや大型化した固体は、清水氏が見つけておられました。そして日本の最北は、季節にはノハナショウブが至る所で見られる場所であるということを知りました。
 昨年もそうでしたが、花菖蒲発達のなぞを解き明かす一つのてだてとして、各地のノハナショウブの自生地を訪れ、地域的な変異の観察や、色変わり個体を発見するということが目的で計画を立てるのですが、実際現地へ行ってみると、そこに花よりも、まず自生地の自然の素晴らしさ、雄大さに感動してしまいます。そして原野に咲く花は、雄大な自然を構成している色彩の一つとして、そのままで十分美しく、「色変わり」という、私たち人間側の価値とはまた別な美しさを持っていることを、改めて感じます。
 持ち帰って手元で咲かせても、こんなに美しくは咲かない。私は、美しいと感じた光景をシャッターに収めましたが、今、その下手なスナップを見ていると、ノハナショウブがと言うよりも、花の奥に感じられる、それを成らしめている自然の力、それこそが美しいのだということが、よくわかります。そして、人間がこの花と関りあいを持つようになるはるか昔から、自然がこの花を育み、季節には可憐な花を咲かせ続けてきたことに、言いがたい深い感動を覚えます。
稚内空港前の海岸にて 奥の山並みは宗谷岬へ続く丘陵,左の海は間宮海峡