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左から 山本氏、冨野先生、板倉氏、平尾先生
提供 岡崎 板倉氏 |
平尾先生の知られていない側面
神奈川県 椎野 昌宏
平尾先生の十年祭が昨年の六月七日、谷中霊園の墓前礼拝のあと、上野池の端の「伊豆栄本店」で行われ、生前親交のあったたくさんの人々が参加しました。先生の若い頃からの逸話が紹介され、楽しい会でした。追悼記念号の「ふりむけば君がいる」という表題は、先生にぴったりの表現で、気さくで暖かい先生の面影がすぐ浮かんできます。先生について私が特に記憶に残っていることについて、ご紹介したいと思います。
まずひとつは、先生はかなりレベルの高い英語力を持っていたことです。十二、三年前に日本花菖蒲協会の招きで、米国アイリス協会の招きで、米国アイリス協会の人々が十数人来日し、京王百花苑や加茂花菖蒲園などを見学し、両国の会員の交換会を開きました。その際、先生が通訳の役を引き受けられ、両国会員の意見の伝達、意見の疎通をはかられました。私は若い頃、商社の駐在員としてニューヨークに数年駐在したことがあり、英語は一応出来ますが、植物用語は理解しません。先生の英語は、発音はあまり良くありませんで、所謂、ジャパニーズ・イングリッシュですが、きわめて文法的に正確で、オーソドックスな英語を話されますし、ヒヤリングも完璧でした。アメリカの人達も先生の心の行き届いた面倒見の良さに、たいへんに感謝していたようでした。ビジネスライクなアメリカ人に対して、あそこまで細かい配慮をする必要があるのかと、やや疑問に思ったことも記憶しています。多分個人的に金銭的な負担もあったことと思いますが、先生の花菖蒲愛好家に対する国境を超えた連帯感を示すものと、改めて今、先生の人柄の良さが偲ばれます。
聞くところによると、先生は水産庁の役人であったとき、かの有名なサケ・マスの漁獲量を決める日ソ漁業交渉の日本側代表の一員として参加されたことがあり、強腰で悪名高いイシコフ漁業相とやり合ったそうで、ロシア語が出来たかどうかわかりませんが、花菖蒲などの花の世界の先生の顔と、別の一面を知ることができます。
もう一つは、平尾先生は周知の通り花菖蒲の育種家として世界的に有名な方ですが、晩年、さくらそうの交配を手がけていたことはあまり知られていません。私は長年、さくらそうを栽培しており、品種の保存にも努めている関係で、先生のさくらそう交配の意図につき、お伺いする機会がありました。先生は江戸時代から続いている観賞方式の五寸鉢の四本植えというきまりに批判的で、そそための育成方法からの制約に脱して、数咲き作りに適した平咲きの大輪を作出したいと言っておられました。そして西洋のプリムローズの遺伝子を取り入れた交配を試みられたようです。残念ながら途中で亡くなられたため、発表された品種はありませんが、亡くなられる前、私のところに「まだ命名し発表する程のものはありませんが」と謙遜しながら、五品の芽を送って下さいました。現在まで残っているもののうちで、三保の古事×玉珊瑚の交配種が面白いです。もう少し生きていてくださったら、恐らく画期的なものを生み出されたことでしょう。本協会理事長の一江豊一氏が、さくらそうの八重咲き品種の作出や、数咲き作り栽培を手がけられているのも、平尾先生の新しい園芸様式への挑戦に沿ったものと理解しています。
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