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平成十年度花菖蒲観賞紀行

千葉県 齊藤 憲嘉


会津高田、私にとってその名は幼い時に過ごしたさびしさ、その他諸々の感慨を含んだ地名でもある。昭和十八年、太平洋戦争が激しくなるに従って、国策により、小学生等の学童疎開が行われ、当時下谷区(現台東区)の西町国民学校に在学していた私の疎開したのが、会津高田町の成駒屋という割烹旅館であった。上野駅から郡山を経て磐越西線に乗り換え、会津若松駅で再度乗り換え、只見線で会津高田駅に到着したのだろうと思うが、残念ながらこの経路の記憶や、車中での出来事などは全く思い出せない。しかし今回、会津若松駅に到着するまでの車窓から見る景色は、何となく懐かしさが感じられるように思えた。


 花菖蒲協会旅行会及び総会の日程は、六月二四日から二五日で会津若松駅に集合。私が十二時頃に駅に着いてみると、すでに顔見知りの会員の方が続々と集まって来ていた。 午後一時三十分、現地の会員である馬場啓介さんの出迎えを得て、マイクロバスにて高田あやめ苑に向かった。あやめ苑は伊佐須美神社に隣接しており、花菖蒲苑及び花菖蒲展示会場を観賞させていただくことになった。


 高田町のあやめ祭りは今年で十八回目を迎え、町最大のイベントの一つでもあり、開幕式は、伊佐須美神社あやめ苑で行われ、杉本町長や轡田宮司らがテープカットして開幕を祝い、そのあとには「新旧ミスあやめ」のたすきの受継ぎや表彰式、筝曲演奏会などが行われ、六月二十、二十一日には友好都市を締結している台東区(私どもの学童疎開を機に交際が始まったと言われている。)からの大道芸人ショーを始め、多彩な催しが行われているという。 この会津高田町の「あやめ祭り」は東北三大あやめ祭りと称され、あやめ苑内には百五十種十万株のあやめが植えられ、また杜若も散見される。景観の美しさは東北随一と言われており、期間は六月十五日から七月五日までの二十日間である。


 高田町のあやめ苑の造成は、昭和四十四年、伊佐須美神社の土地の一部を町が無償で借り受け、公園を造る計画があり、その中で失業対策の一環としてあやめ苑の造成が開始された。(私が疎開していた当時は鬱蒼とした森で、神秘さまで感じられる所であったと記憶している。)その際、町役場の建設課に所属していた馬場さんたちが、池の端に咲く一株の杜若を見てそれを活かした公園造りをしていこうということになり、当時県議会議員で神社総代長でもあった故渡部勉氏が福島の知人から苗を寄付してもらい、その後馬場さん等の栽培、増殖の努力、庭園整備などが終わり、昭和五十六年から「あやめ祭り」が開催されるようになったという。
 あやめ苑見学のあとは、現地の「町ふれあいセンターあやめ荘」で、平成十年度日本花菖蒲協会総会が開催された。椎野理事の司会により加茂会長の挨拶、一江理事長の会計報告に続き、金子理事の監査報告等が行われ、無事総会が終了した。 その後小林昇氏による盆養及び鉢植えによる基本的な栽培方法や、小鉢でも花菖蒲を咲かせる方法などの講演があり、地元の人たちも参加して、花菖蒲に対する意識がさらに高まった。


 会津高田町は会津文化発祥の地と言われ、宮川の清流が流れ、伊佐須美神社の社の緑と、東北に会津磐梯山、北に飯豊連邦、西に明神岳が望まれる。宮川の両岸のソメイヨシノ群植、伊佐須美神社の御神木「薄墨桜」は、西暦五百年に南原から現在の東原に遷座された古木で、一株から十一本の枝を生じたサトザクラであり、

世の人に心や深くそめぬらん うすずみ桜あかね色香に

と会津藩主松平容保公が詠れている。
 また、会津総鎮守で岩代一之宮、旧国幣中社の本殿を中心に南限を示す楡の樹林。見事な美を競うあやめ苑などを含めて五万坪に及ぶ境内を有している所である。昨年の旅行会で訪れた岡崎は、松平氏発祥の地であり、菖翁ゆかりの花菖蒲を愛好する者にとっての因縁を深く感じたような思いをしたが、あやめ苑の後に訪れた竜興寺は慈覚大師の開基とされる古刹で、上野の寛永寺や日光東照宮を建立した家康公の知恵袋・天海大僧正の得度寺で、両親の墓があると聞き、さらに因縁を感じた。
 この寺には五色の蓮華座の一字三札経で、一字ごとに彩色蓮台をおいた荘厳経が寺宝として所蔵されており、国宝にも指定されているもので通常公開はしていないものだが、寺の特別の配慮により拝観出来る事になった。平安時代の貴族が現世の浄土を具現する祈りを込めた写経で、約七万字総長百米、九巻があり、平泉中尊寺の金色堂の金字一切経や厳島神社の平家納経などとともに、有名なものと伝えられている。

 
 今回の旅行の宿は「芦の牧温泉」の丸峰観光ホテルで、一日の汗を流し、和気相合の懇親会に入り、宴たけなわとなり、地元出身の新人歌手・佐藤恵美子さんの正調会津磐梯山等数々の歌が披露され、大いに盛り上がった。また馬場さんは、地元民謡界で作詞、作曲を行う有名人でもあり驚いている。  
 翌六月二十五日は市内観光とのことだが、あいにくしとしとと雨が降る天候だった。まず訪れた先は飯盛山で、戊辰戦争で活躍した白虎隊の墓、江戸期の珍しい木造建築さざえ堂があり往時をしのぶ事が出来る。(昭和十九年当時の飯盛山の景観とは全く変わっており、観光化し歴氏の証人として史跡ではないのではないか。)飯盛山から鶴ヶ城を望む様は往時そのままである。
 飯盛山をおりて鶴ヶ城、会津松平氏の庭園である御薬園を通り、会津路に別れを告げた。福島県矢吹町で「アイリスファームいやさか」を経営されている根岸 和さんの所へ立寄り、時期的に遅い花菖蒲等を拝見し、山海の珍味の昼食を戴きながら、三村博昭矢吹町長からのアイリス類による町起し等活性化についての有意義なお話があり、懇談に花が咲いた。十五時三十分頃新白川駅にて無事解散となった。根岸さんのアイリスファームは例年アイリス祭りを開催しており、五月中旬から六月中旬まではジャーマンアイリス。六月中旬から七月上旬まで花菖蒲が咲いているとのことだった。


 旅を終えてみて、いつも思うことではありますが、今回の旅行の設営に盡力して下さった馬場啓介夫妻ならびに関係者の皆様には大変ご苦労を戴きましたことにつきまして感謝を表します。ありがとうございました。  最后に私ごとで恐縮だが、今回の旅行は私の第二の故郷への訪問であり、数々の過ぎ去りし日々が甦った旅でもあった。想えば、会津高田町から昭和二十年二月十日上京、それぞれの懐かしの我が家に着いた。しかし、その日は今でも目に浮かぶが、上野一帯は空襲により一面の焼け野原と化し、これが戦争かと幼いながらも胸を痛めた。
 それから半世紀を経ての会津高田町であったが、行く前はここがこうであったなど、いろいろと想いをめぐらせて胸をはずませていたが、現実は今浦島の如く。地方都市の変わり様は東京と同じで開発が進み、伊佐須美神社の美しく神秘的で荘厳さのただよっていた社も消え、満々と水が湧き出ていたひょうたん池には水もない。いつも眺めては東京に帰りたいと願った宮川の流れ、明神岳の雄姿は昔日と変わらない。「明神岳の源の、宮川清く流れ行く、我が高田町栄光の、会津文化の起りし地…」と会津高田町国民学校(現小学校)校歌をくちずさみながら、在りし日を想いつつ。