平尾秀一先生(左)と大高氏 |
私見 平尾先生記
神奈川県横浜市 植木 久晴
昭和六十年六月八日、先生は卒然として他界された。生前は農水省の能吏として活躍され、趣味として花と音楽をこよなく愛された。また、よく酒をたしなまれ、酔われると花談義にふけるといった面もお持ちの方であった。
このような先生に、愚痴を得てご指導していただくことになってから、数年もたった頃と思う。私は居間で、詩人李白の伝記を読んでいたのだが、読み進むうち、何故かこの詩人と平尾先生の全体像が重なって見えてきた。これは、前に述べたように先生の職業が吏員で李白と同じであることや、どちらも酒を好むという共通事項があるからだと思う。花と詩では異質かもしれないが、風雅という性質は同じである。先生も李白も自身の作品をより高めながら、尚かつそれを楽しんでいるような部分が感じられるように思う。やや牽強付会の感なきにしもあらずだが、当っている部分もあるように思う。
そのような先生に御意を得たのは、昭和三十年頃だったと思うが、何のつても無く、当時先生が住まわれていた静岡の丸子へと伺った。まことに図々しい限りであるが、折り良く先生は御宅におられた。私の来意を告げ、会話が終わる頃に先生は庭へと案内して下さった。同じ勤め人の小生には、庭と言えば猫の額ほどのものという貧者の認識があった。しかし、案内されたそこは庭ではなく畑で、見事な花菖蒲園が前面に広がっていた。驚くとはこの事で、花どきに来なかった事を残念に思ったものである。帰り際に先生は、お土産にとオリエンタルポピーの名称付きを五株ほど下さった。
その後の数年間は小生にとっては最悪の期間であって、潰瘍で横浜の根岸にある日赤病院での入退院の繰り返しや、車の事故で足を骨折したりと、健康上の問題で自然と園芸にかかわることも出来なくなってしまった。そのために先生との往来も途絶えてしまい、先生の逗子への転居を知ったのは、昭和三十八年頃だったと思う。その頃には体調も戻り、ぽつぽつと花の方も始め出していた。当時の小生は山草的なものを好み、姫シャガ、キンカキツ、エヒメアヤメ、鞍山アヤメ等を楽しんでいた。
さて、先生のお宅への再度の訪問は、七月であったと思う。初夏の昼下がり、逗子駅から先生のお宅のある山の根という地名を頼りに歩いて行った。あちらで聞き、こちらで尋ね、探し当てた頃には相当に時間もかかり、暑さのためか正直言ってがっくりとしてしまったのを覚えている。御宅は山の中腹にあり、下丸子とは環境もがらりと変わっていた。植栽されているものもそれに合わせ変えられ、効率よく配植されており、土地の利用法を教えられた。玄関脇の廊下に椅子と卓がすえられ、先生とそこでお話を交わした。暑いので硝子戸をあけはなし、そのためかヤブ蚊が遠慮なく入ってきて攻めたてるのいで、往生したものである。その廊下の前にビニールのシートで作った貯水槽があり、そこに花菖蒲の鉢数十鉢づつが、一ブロックになって入れられていた。そのようなものが数箇あったが、下丸子を知っている小生は余りの違いに暗然としたものだ。先生は小生の心のうちなど知るよしもなく会話を進められ、ここは花菖蒲作りには向かないが種子くらいなら採れる、育種親と特別に見たいものくらいしか置いてないが、それでも交配計画を練ったり、それらの中から将来どのようなものが出るかと
いう期待感で、十分み満たされると言われた。もちろん採った種は、しかるべき人々に配布されての事と思うが、小生は素人のはやとちりで、危うく恥じをかくところであった。大人、道に窮せずとはよく言ったもので、目の前で教えられたものである。
話しが小型イリスに及んだ時に、小生が小生が前に述べたように、ヒメシャガやエヒメアヤメ等を作っていることを話すと、先生はカリフォルニアアイリスの本を持ち出され、写真をまじえながらいろいろと細かく説明して下さり、そのうち玄関横の畑から、カリフォルニアアイリスの苗が植えられたポット鉢を持ってこられ、お土産にと渡して下さった。その後もルイジアナアイリスの濃黄色花を見せていただいたり、「金太郎」と先生が名づけられたルイジアナアイリスの固体を戴きもした。
また、音楽では一度、次のような事があった。朝、突然電話のベルが鳴ったので、受話器を取ると先生からのものであった。近日、横須賀のホールで渡辺暁雄さんのシベリウスが演奏されるから聴きに来ないかとのお誘いだった。私はご一緒させていただく事にして、京浜急行の横須賀中央駅での待ち合わせをお約束した。中央駅では先生がすでに来られていて恐縮した。ホールに行くと楽屋に渡辺さんを尋ねられ、激励されたのち、色々と懐旧談に興じられていて、学友の素晴らしさを垣間見せられた。曲目のフィンランデイアは情感のこもったもので、良かったことを記憶している。先生は御自身でハーモニカをこなし、尺八も明暗流とか言う小虚無僧系の流派を学ばれたと言われ、そこに伝わる秘曲を学ばれたとも言われていた。しかし残念ながら小生はハーモニカも尺八も先生の演奏を聴くことは出来なかった。いづれにしても御性格から言っても相当の実力を持ってお出でと推察するが、これだけは批判の外である。
先生の交友関係は広く世界の各地にも及び、そのためか種々なるものを栽培され、同時に多くの同好会を作られ改良にも励まれた。しかし会にある程度の力が付き、基礎が出来るとバトンタッチして、全てを他の人々に委ねるのが常であった。しかしその中にあって、終生変わらず育種と栽培に努力なさったものは、花菖蒲ただ一つであったようである。先生は花菖蒲園の視察旅行の途中倒れられたが、京都駅までのお仕事もその象徴なかったかと小生は思っている。ともあれ、先生は現界での投球を園芸界というグラウンドで、全力を振るって果たし終えられた。今はたゞ御魂に平安あらんことを祈るばかりである。終わり
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