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 鉢植え主義への菖翁の決断

                       加茂花菖蒲園  加茂 元照


  松平菖翁の歴史的名著花菖培養録は、 弘化2年(1845)本、弘化4年本、 嘉永元年本、嘉永2年本、嘉永5年本、 嘉永6年本が残っています.しかしこ の9年間に次々と「手書き写し」で出さ れた花菖培養録の内容は少しつつ違っ ており、特に、嘉永6年本には花壇培養 の項が全部削られています。菖翁はな ぜ地植えをあきらめ、鉢植え主義を決 断したのでしょうか。

 見舞われた連作障害

 菖翁の先代から作り続けられた花菖 蒲花塩は連作障害が出ており、多数の 古株は衰えていたに違いありません。 これを整理し、古い表土をを捨て、新し い土を入れたところ良い成績を得るこ とが出来たのでしょう.その時、菖翁に は土の入れ替えが出来る余裕があった わけです。そして大鉢による鉢栽培も 始め、意外の好成績を上げたことが書 かれています。しかし、その期間は長く は続かず、培養録の「花塩栽培」の項に 書いたような、土の入れ替えをする経 済的余裕が無くなり、たぶん、嘉永3年 頃には連作障害で花塩植の花菖蒲は次 第に衰えたと推測されます。  天保の飢饉をもたらした異状低温は、 稲作には不都合だったが花菖蒲には非 常に良く、江戸としては例外的に見事 な花菖蒲栽培が見られたはずです。 培養録には「絶品に至っては、開花の翌 日いまだ半開にして三日を経てようや く満開しその業を現わし、保つ事四五 日にしてようやく萎めり」 と書かれて います。これは夏が涼しい北国での現 象と似ており、天保の異状低温が想像 でます。  しかし、菖翁が「花鏡」「花菖培養録」 を書き終えた弘化以後は普通の暑い夏 が訪れ始め、土の入れ替えの出来なく なった菖翁の花塩の作柄は急速に低下 したと考えられます。これは菖翁に とって耐えがたい苦悩であり、以後の 花菖培養録からは敢えて花塩栽培の項 を削る決断をしたと思われます。幕末の武士は軒並みに経済的困窮に 喘ぎ、嘉永6年の黒船騒動で幕府より お台場建造を命ぜられた菖翁の松平家 は遂に破産状態となり、花菖蒲も分譲 売却(熊本、堀切)されることになりま す。  見切られた花鐘栽培  熊本より吉田潤之助が弟子入りした 頃には菖翁は花壇栽
培を次第に見切り、 鉢植え中心主義に方針を切り替えつつ あった時であり、肥後での新 しい花菖 蒲栽培は鉢植えオンリーで進むように 強力な指導を行なったのでしょう。 細 川家よりの最初の分譲申し入れを断っ たのは、単に株を分譲すれば花塩栽培 も行なわれ、困窮している下級武士の手に負えない結果になることも菖翁に は分かっていたのでしょう。従って、地 植え栽培は切り捨て、鉢植え栽培だけ を伝授したのでしょう。

 鉢植え主義への決断

 確かに、農業的に水田を利用した栽 培ならば連作障害は少なく、工夫と管 理次第で堀切菖蒲園や明治神宮のように100年、200年同じ場所で何と か栽培を続けることが出来ます。しか し、武家屋敷には水田状の面積がなく、軽い土で趣味的に花壇栽培すれば忽ち 連作障害に悩みます。小規模でも取り 組められる育種中心の花菖蒲園芸を、 鉢植え主義で行なう決断は、菖翁なら ではのものであり、その意義は現代に も脈々と生きていると思います。  現に鉢づくり主体で研究、育種に成 果を上げられている方々は各地におら れ、平尾先生も晩年は鉢植えを主体に されていました。  戦後、楽に水の管理が出来るビニー ルプール法が普及し、何百品種、何千鉢 もを作ることが可能になりました。最 近では底面給水鉢、スプリンクラーシ ステム、点滴潅水システム、湛水、排水 自在のベッドシステムなどが出現し、 家庭でも経営でも省力的な栽培が出来 るようになっています。  大きな花菖蒲園でも鉢植えをたくさ ん作っておけば品種管理や植え替え、 入れ替えが楽に出来、促成、抑制栽培の 組み合わせによる開花期間延長も可能 になります.もちろん展示会には最適 で甘ノ。  幸いに庭があり、地植え栽培が出来 る家庭でも鉢植えにすれば同じ面積で もはるかに多くの花菖蒲研究、育種が 可能になります。菖翁の決断を参考に、 現代的な花菖蒲の鉢作りを大いに進め たいものです。