あやめ語源考
なぜ「あやめ」と呼ばれたのか、その語源をいくつかの説からさぐってみましょう。
ノハナショウブの花弁基部の、輝く濃い黄色の美しい目形模様が語源であるとの説で最も説得力があります。貝原益軒の『日本釈名』(1700年)に「あやはあざやかなり、めはみゆるなり、たの草よりあざやかにみゆるなり」と書かれていますが、これは「あざやかな目」と考える方が自然でしょう。 ノハナショウブが草むらに咲いているところに行くと、こちらが「見られている」ような神秘感があります。これを捉えての表現です。
『大言海』(1937年)によれば、葉に併行している筋が文目(あやめ)のように入っているからと説明しています。 また、『牧野新日本植物図鑑』(1940年)では、「あやめは文目の意味で、その葉が並列して立っているところから美しいあやがあると考えての名」とありますが、実物の花菖蒲を何度眺めてみてもその感じはなく承服しかねます。
3、 漢女説 奈良時代には中国から渡来した女たち=漢女が朝廷に大勢仕え「あやめ」と呼ばれていたことから、彼女たちが端午の節供に用いた草を「あやめ」と呼ぶようになったと言う説があります。 この説では上代仮名遣いにおいて、万葉集に使われている表記の安夜女具佐の「女」には「目」の意味がなく、したがって弁元目形模様説は誤りであるとしています。しかしこの問題は、漢女を「あやめ」と呼んだ理由にありそうです。彼女たちの目尻を強調した化粧が「あやめ」のようだと言われ、漢女=あやめになったとすれば納得が出来ます。となれば漢女説は弁元目形模様説を否定するのではなく、逆に肯定する説になります。 もう一つの問題は、表記の「女」には意味において「目」を表さないことで、それについては、「あやめ」という語が文字渡来以前からすでにあって、文字化するときに実物を見たことのない者が適当にあて字をしたとすれば問題がなくなります。
奈良朝廷が中国の行事である「端午の節供」を日本に導入した際、サトイモ科のショウブを、中国名の「白菖」として使うべきところを間違えて、「菖蒲」と名づけ「しょうぶ」と呼ばせて、そのまま五月五日に使わせようとしました。 それでも一般の人々は在来の「あやめ」、「あやめぐさ」の名で菖蒲を呼び、異種同名の混乱が生じた、とすれば筋が通ります。 花には美しい目形模様があり、火を思わせる色彩の「あやめ」が既に存在したので、朝廷からの命令として「水辺に生え、剣のような鋭い細い葉で霊験ある菖蒲」と知らされたとき、それなら「菖蒲はあやめのこと」と受け止めたのでしょう。 奈良朝廷としては、前の時代の風習や信仰を否定し、中国流の新制度を築こうとしていましたから、ちょうど旧暦の五月五日頃に美しく咲く「あやめ」が、以前から存在していたものでは具合が悪かったはずです。 『枕草紙』にはあちらこちらに「そうぶ」と書かれ『弁内侍日記』(鎌倉中期頃成立)には「志やうぶ」と書かれています。 |