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  北野天使と遺伝子侵食
    
         
                                    品種登録係 清水 弘  

〔ノハナショウブの純血性〕

 原野に自生するノハナショウブから発見されたピンク色個体は数種が知られ、「北野天使」(1980年東田)、「恋問姫」(2004年清水・永田)等の花銘が付けられて、株分けで増殖されている。また、山形県飯豊町で発見されたピンク色ノハナショウブは実生繁殖されて、「出羽の姫君」との名で販売され始めている。
最近、山口県の友人から山口市内のノハナショウブの自生地の様子(写真1〜3)が送られてきたが、そこにも北野天使に似たピンク色個体や白色個体が見られ、全国的にみると、まだまだ北野天使級の個体が発見される可能性に心が躍った。しかしながら、同時に送られた別の自生地(写真4〜9)は周囲の田畑や林に連続した民有地にあり、ノハナショウブと栽培品種とが自然交雑したらしい中間種(形態的には長井古種に近似)の花々が散見された。これを専門的には「浸透交雑」というが、筆者の実生経験からするとノハナショウブと栽培品種との交雑は容易で、その雑種は雑種強勢となり大変に丈夫で株繁殖力、自然結実力ともに強い。さらに、この写真からは、ノハナショウブの純潔性がさらに失われて、栽培品種の形質が強くなった雑種二代目、三代目に達していそうな勢いも感じられた。世界的には、このような野生種としての純血が失われることを「遺伝子侵食」と呼び、自然保護と資源保護の両面から禁忌のこととされる。
 わが国でのノハナショウブの自生地は北海道稚内から鹿児島県に至る全国に散在しているものの、何処においても開発が進んで自生地自体が消滅しつつある。このような情勢に加えて、遺伝子侵食が一部の自生地で起こっていることは、自然保護論者のみならず花菖蒲愛好家も見過ごすことのできない問題となってきている。私たちは栽培品種と同様に、純粋な野生種にも価値があると考える時代が来ていることを知らなければならない。この方面で日本花菖蒲協会ができることは、(1)北野天使のように自生地から採取された個体そのものの株分けによる増殖品(野生遺伝子)をきちっと登録し、より純粋性が分かるように維持管理してゆく。(2)自生地を観察して浸透交雑の恐れのある場合は、協会を通じてその筋に情報提供する。というやり方があるのではないだろうか。北野天使とはそのような活動のシンボル的存在と位置づけられる。

〔品種総目録上の系統‘野生種’の細分類〕
          
 
昨年の会報で発表された‘釧路百合咲き’は、栽培品種の血の入らないノハナショウブ同士の交配から生じた品種群で、従来の分類には当てはまらない。加茂花菖蒲園ではロシア産ノハナショウブと栽培品種(小仙女)を交配して「沿海州」を、また、飯豊町産ピンクのノハナショウブを自家受精させて「出羽の姫君」などを作出している。一方、青森県の鯉艸郷でもノハナショウブと栽培品種との交配を進め、長井系のような花型の栽培品種を作っている。さらに、一部では浸透交雑によって生じた個体から選抜された個体も栽培化されつつあることから、大自然が何万年もかかって形成してきた野性遺伝子を損なうことのないよう、将来的な野生遺伝子保護の観点から、協会総目録上の一項目である‘野生種’について、下記のような細分を行い、純潔性の整理・保存が急務である。

○野生種の細分類
分類  由来 事例
野生(株分) 自生地で採取されたノハナショウブの株分け個体 北野天使、恋問姫、陸奥の薄紅、日和田四英
野生(実生) ノハナショウブを実生繁殖させたもの 出羽の姫君、釧路百合咲き初期系統
野生(不明) 来歴不明(採取者、場所、年月日)のノハナショウブ トントン花、白花ノハナショウブ
戻し交配種 ノハナショウブと栽培品種との庭園交配種 沿海州(江戸系)
浸透交雑種 ノハナショウブと栽培品種との自然交雑種 未発表種あり