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 日本の花を創る その歴史と思想   
              静岡県掛川市   永田 敏弘

 花菖蒲は、日本でおよそ三百年くらい前から改良されてできあがった花です。このことは、みなさん良く知っておられることと思います。世界中の花が氾濫しているこんにちの園芸植物のなかで、花菖蒲は日本の伝統的な園芸植物という強いイメージを持っています。そして、海外からも日本の花として関心が寄せられています。最近では韓国でも関心が高まって来ているようで、昨年は数件の熱心な問い合わせがあり、話を聞くと今人気が出はじめているそうです。

 この花は実生からでも簡単に花を咲かせることができ、新しい品種を創るという楽しみも大きな植物なので、伝統的な植物でありながらそれに拘らず、気軽に育種に取り組むことも可能です。しかし、花菖蒲がどういう過程をたどり今に至ったかを考えるとき、そして、将来にどう伝えるべきかを問うとき、日本の花として、その根本をしっかり認識して改良に取り組むことがひじょうに大切であると私は思います。
 では、そのための知識として、花菖蒲はこれまでどのように改良されてきたのか。これからどのように改良してゆくべきか。思い当たるふしを書き出してみました。
「衆芳園草木画譜」より花菖蒲部分 天理図書館蔵
松平定信により江戸時代後期の文化年間に作成された3巻からなる絵巻物。ここに41作品の、江戸花菖蒲古花よりも古いタイプの花々が描かれている。この時代まだ花菖蒲はあまり発達していなかったことがわかる。

【端午の節句の祭りの花】

 まず、知っておいていただきたい事柄は、花菖蒲ははじめは、端午の節句の祭りの花として発達がはじまったということです。
 サトイモ科の菖蒲によって邪気を払った端午の節句は、江戸時代の武家社会において、武運長久を願う「菖蒲=尚武」の節日として、武士の間で盛大に祝われました。この風習は江戸時代中期の元禄年間頃には民間にも普及し、五月人形や鯉のぼりの風習もこの頃にはじまりました。そして、花菖蒲の品種が増え始めたのも、まさにこの時代でした。
 この時代の花菖蒲は、まだ発達の初期の段階であり、現在の長井古種や、それに準ずる簡単な花形の品種程度のものが、節句の花として、庭植えや切花として観賞されました。今でも五月人形飾りのなかに「あやめ」の花が見られるのは、このことの名残です。
 そして元禄の時代からおよそ百年以上、花菖蒲はあまり発達せずに推移しますが、これは、節句の祭り花であり、花そのものの芸術性を追求する植物ではなかったことを示しています。
さて、江戸時代後期になると、江東の葛西領堀切村で花菖蒲園が誕生します。堀切は江戸に切花を生産出荷しており、花菖蒲も節句用の切花として栽培していましたが、それを直接見てもらうようになったのが、堀切の花菖蒲園のはじまりでした。そして観光園として人々の目を楽しませることが必要になり、花菖蒲はこの時代に急速にバラエティー豊かに改良され、発達しました。
 このように花菖蒲は、端午の節句の花として発達がはじまりました。そこから求められたのは、邪を切り裂く剣のように鋭い葉と、それぞれが個性を主張し、賑やかで明るい花でした。中でも、だらしなく下垂せず、威勢良く水平に張った花形を、江戸庶民は「受け咲き」と呼びもてはやしました。今でも古い江戸系の品種には、こういった葉が剣葉で受け咲きの品種が散見されます。
 しかし、花菖蒲を節句の祭り花とした伝統は、明治になり新暦が導入されることで失われました。暦が一ヶ月早くなったため、端午の節句に花菖蒲が咲かなくなったからです。そのため以降は、節句の花という性格は次第に失われ、専ら花を愛でる園芸植物として改良されるようになりました。今日では華道界などでのみ、端午に花菖蒲を生ける伝統が残され、「叢 雲」、「浪花津」など、蕾と葉姿の美しいごく一部の品種を促成して新暦の端午に用いています。

【花の品格】
 堀切の花菖蒲園が賑わった江戸時代後期というのは、有名な松平菖翁がさかんに花菖蒲を改良した時代でもありました。
 菖翁の品種改良は、節句の祭り花であった花菖蒲、つまり威勢良く賑やかに咲き美しければ、それ以上は敢えて求めなかった植物を、花一輪の芸を楽しむ上流階級の園芸植物として改良したことにあります。それまでの多彩ではあっても単純な花形だった花菖蒲をもとに、菖翁本人が言う業(わざ、芸、変化)を持たせ、花菖蒲の花形を芸術の域にまで飛躍的に発達させました。菖翁はこの意味において、「古典」ではなく、まさに現代の始まりであると言えます。
 その中で、菖翁が重視したのが花の品格でした。「花菖培養録」に「草の優劣を考えるに、花菖蒲は三英六英に限る」とあり、「宇宙」をはじめ多くの八重を作出しているにも拘わらず、三英、六英の持つ品格を重視しています。これは武士の精神であり、江戸幕府が奨励した儒教思想の反映によるものと思われます。

 この考えを翁は熊本に伝え、熊本にて江戸末期頃より花菖蒲の改良がはじまりました。熊本では花菖蒲の栽培を武士のたしなみであり一種の公事、武技の延長であると考え、花を人の心、精神と見るまでになります。「満月会」の厳格とも言えるほど厳しい掟のなかで、世界に類を見ない豪華で且つ高い品格を堅持した品種が多く生み出されてゆきました。
 満月会の熊本花菖蒲は、門外不出の固い掟がありますが、この掟は大正時代に一度破られ、横浜の西田衆芳園によって一般に普及しはじめます。豪華な大輪花に関東の人々は心酔し、本協会誕生の原動力にさえなりました。大英断をもって優秀な熊本の花を普及させた西田信常翁は、戦後のそして現代の花菖蒲に大きな影響を与えた花菖蒲界の偉大な功労者ですが、信常翁の偉業は、熊本花菖蒲を紹介しただけでなく、花の品格を非常に重視した満月会の精神までも詳しく紹介したことにありました。
 

西田信常(1862〜1938)平成2年衆芳園カタログより
信常翁の著作は、戦前の「実際園芸」に掲載された「伝統に輝く熊本花菖蒲」や、本協会会報に、平尾先生がかつて掲載した「西田信常翁遺稿」などがあり、当時の栽培方法と、熊本花菖蒲の精神を読みとることができる。
 そして、この精神は、当時まだ若かった平尾秀一氏や、光田義男氏ら、戦後に活躍することになる育種家の脳裏に鮮明に焼き付けられたのです。
 豪華なだけでなく、花に崇高な品格を求めるという文化的精神的な拠り所は、高級な育種家の心を掴み、花菖蒲は世界に類を見ない日本の花としておおいに改良され、戦後の高度成長社会の中で多くの花菖蒲園が生まれる原動力となりました。
【思想の欠如】
 しかし、戦後五十年を経る頃から、西田衆芳園も花菖蒲の販売を止め、戦後に活躍された高名な育種家の諸先生方がこの世を去るにしたがい、こういう難しいことを言う方も減ってゆきました。
 1970年代に吉江清朗氏が極早生咲きの品種を多く作出され、当時は「あの系統は花じゃない」などと、他の育種家から花形に対する厳しい批判もありましたが(育種家とはこういうものですが・・)、今にして思えば実用に徹した育種のはじまりであったと言え、その後、悪口を言える人もいなくなりました。
 そして現代では、端午の節句の花としての性格はすでになく、花の品格を重視する考えも、ほぼ過去のものになりました。花菖蒲園ではとりあえずきれいに咲くことが前提であり、個人趣味家の多くは一般的な豪華至上主義から、華やかで派手な品種をもてはやしています。
【澄心(ちょうしん)】
 熊本花菖蒲の玉洞芯へのあこがれから平尾先生が作出した品種。平尾先生の作品には、他にも白玉楼、清心など、熊本の品格にこだわった品種が多い。
 しかし、これは時代の流れなのでしょう。アメリカ型文化に浸りきっている現代の私たちが、品格よりも華やかさを求めるのは当然ですし、私自身、今の時代に熊本の過去のイデオロギーに則った新花を作出する意味があるのかと思っています。
 しかし、それならばというわけで、昨今は伝統よりも鮮明な色彩でさらに豪華に、または丈夫で繁殖の良い園向き品種など、実用に即した花を創るという方向に進んでいます。たしかに良い品種が生まれてきました。しかし、今度は一見派手で豪華でも飽きがくると言うか、どこか表面的な感じに見えてしまうのです(これはなかなか高度な感覚です)。古い名花が旧知の仲で郷愁をさそうからかもしれませんが、やはりこの植物の改良において、日本的な感性が大切なのではと感じるようになります。

それでは、日本的な美しさとはそもそも何でしょうか。
 
【日本的な美しさとは】
 さて、これはおぼろげに知ってはいても、あらためて問われると難しい問題ですが、およそその地域でどのような文化や芸術が発生するかは、その地域の気候風土が大きく関与しています。日本を含む東アジアの自然は、西洋の宗教が発祥した地域のような、征服しなければどうにも耐えられないような過酷なものではなく、四季の変化がありおおむね温暖であったため、私たちの祖先は、遠い昔から恵み豊かな自然と調和し、自然の中に精霊の存在を感じ、それを神として敬い崇拝して何千年もの間を生きて来ました。
 この自然の中に神の存在を感じ崇拝する思想、相手を征服するのではなく皆平等に調和してゆくという思想は、有史以降の神道、日本仏教、平安時代の国風文化など、日本の芸術文化に大きな影響を与え、外来文化の影響を受けてもゆらぐことなく日本人の感性を培ってきました。
 また、四季おりおりに変化する美しい日本の自然は、その微妙な変化や美しさを感じ取る繊細な感性を生みました。日本の美とは自然の美しさであり、自然と調和しながらその中に美を見出す豊かな心であろうと思います。そうした美意識が、こんにちでも私たち日本人の心の底にしっかりと息づいているからこそ、その感性が創り上げた花菖蒲に、日本らしさを感じるのです。海外で作出された花菖蒲に、どことなく違和感を覚えるというのは、こういうところから来ているのです。

【日本の美を花に表現する】
 花菖蒲のなかの名花と呼ばれている花々には、日本の美が息づいています。日本の美を表現できる希な花なのです。この意味において、花菖蒲の育種は他の花の育種よりも和風の美的センス、感覚の部分が非常に重要です。
 新しい花を作り出す場合は、まず歴代の名花と言われる花を、どこがすばらしいのかよくよく観察し、自分の心の中に眠る、日本人の美意識を磨いてゆかなければなりません。平尾先生は、当園の社長に「ノハナショウブを見ろ」と仰ったそうですが、これは、太古の日本人が感激し、花菖蒲文化を作り上げてきた原点の花をくり返しくり返し何度も見て、自分への栄養にして、それを元に育種を展開しようということだったそうです。
 もちろん花菖蒲以外にも、常に自然の美しさや伝統の美しさを観察して、感覚を養うことが非常に大切です。新緑の若葉の燃えるような輝きに、夏空に広がる大きな入道雲に、冬の訪れを告げる寒い風に、光りはじめた陽春の青空に、驚き感動する心を養うことが大切です。その上で、育種の技術を戦術として、自分らしさを表現してゆけば良いのです。そしてこの方向が、日本の花としての花菖蒲の進むべき方向であろうと思います。

 以上、思い当たる事柄を並べてみました。この花の発展のためには、今の時代に沿った新しい感覚で邁進してゆくことが大切なのは言うまでもありません。しかし、だからと言って技術だけを先行させ目新しく人が驚くものであれば良いという発想は、この花の品位を落とすだけです。歴史のなかで築かれた伝統の美しさを、今の時代にどのようにアレンジして表現するか。花菖蒲の育種は誰でも簡単に出来ますが、とても奥の深いものだと思います。よく考えた上で進んでいただきたいと思います。