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 心の眼

    加茂花菖蒲園      永田 敏弘    

視覚的に

   初めて花菖蒲の美しさに触れたのは、花菖蒲そのものではなく、一九八一年に出版された「最新花菖蒲ハンドブック」という本を見た時のことでした。まだ高校の頃の話ですが、それまで花菖蒲にこんなに沢山の美しい花があるとは思ってもおらず、高校の図書室でその本を手にした時、とても驚きました。今になって思ってみれば、あの本が出るまで、多くの品種の美しさを的確に捉えた一般に手に入れやすい書籍がなかったからだと思います。それとともに、この本は品種解説のなかで花菖蒲を文化的に紹介してある個所も多く、花菖蒲の歴史の深さを知り、それがとても興味深く感じられました。
   子供の頃からの園芸好きであったので、それからは自宅で花菖蒲も作るようになりましたが、家ではほとんど場所が無く、本やカタログを見ながら、これが名花だと言われている花に絞り作っていました。今につながる「良いものを見極める」という発想は、家に殆ど場所がなかったことから身についたものだと思います。その頃は視覚的に受け入れられやすい豪華な大輪花が好きで、「舞 扇」や「白玉楼」など肥後系が多かったのですが、「宝玉」や「伊勢誉」などもあり、歴史的価値のあるものをという発想も持っていました。また、二十歳頃には改良してみたいと思い、手元にある品種を交配したりしていました。

   花菖蒲の改良がしたくて今の会社に来ましたが、その頃の園には「栄紫」や「美吉野」「初紅」ばかりが目立ち、それはそれで丈夫で開花期間が長く実用的だったわけですが、「日本一の・・」と銘打っている園で、例の「ハンドブック」で名花とされている「宇宙」や「玉洞」が無いのは何故なのかと不思議でした。それを尋ねると「うちではそういう作りにくい花まで作る余裕が無いから」と言われました。今になって思えばそれも当然のことで、年間二十万を越すポット苗を生産出荷しているなかで、作りにくい花を保存するのは、そういうことに趣味っ気がある人物がいなければ出来ないことでした。

「玉洞」ぎょくどう 熊本古花 江戸時代末の文久年間頃にに,熊本の平井内蔵助氏によって作出された。くまもとでの改良初期の作品のため,花容は一般的な熊本花菖蒲に比べ単純で,江戸花菖蒲の面影を残している。三方に別れた芯の形が気高く,この芯の形を「玉洞芯」と称し,その昔熊本では本種を「標準花」として,この芯の形を基準に多くの作品を作り出した。気品高い純白の三英花は,花の品格を重視した菖翁と,翁に師事し「花の芯は人の心と同じ」とした熊本武士の精神の顕れである。衆芳園の西田常信翁が「もし花菖蒲をたった1品種しかつくったらいけないという法律でもできたとしたら,私は「玉洞」を作る。」といった名言を,この花を見るたびに思い出します。

新花が表面的でうすっぺらい

   二十五歳頃になると、自分で交配した新花が咲きはじめました。「翠映」などはこの頃に選んだものです。しかし、多種多様な新花を見れば見るほど、それらが表面的でうすっぺらなものに見えてなりませんでした。

   花菖蒲の育種はそれほど難しいものではなくて、実生して気に入ったものを選ぶだけの作業です。続けることが大切で、経験を積み個々の品種の遺伝的な特性を把握できるようになると、育種のスピードも上がりますし、心に描く花を作りだすにはどのようにしたら良いかも判断できるようになります。そして、毎年どんな花が咲くのかと、開花時期がとても楽しみになります。
 
私も最初のうちはそうでした。しかし、多くの新花を見るうち、私は、花菖蒲は新しい特性だけが全てではないような気がしてきたのです。

   心の隅には、いつも「宇宙」がありました。その歴史以上に、良く咲くと夢のように深遠なその花は、自分などが選ぶうすっぺらな新花を圧倒し、名花とは何かを教えていました。二十五歳のとき、社長につれられて千葉大の岩佐先生のご自宅で「花菖培養録」の中の「宇宙」の図を見たときの感動は、今でもはっきりと覚えています。

   その頃、当園では古花の重要性をあまり認識していませんでした。カタログでも新花ほど価格が高く、古花は名花でも安価で、現存する古花が揃ってはいませんでした。

花菖蒲の歴史を知る

   これではいけない、「玉 洞」が名花だと知っていても、その本当の美しさを知らないじゃないか。古くから名花だとされている花を見て、どこが良いかを本当に理解してからじゃないと、良い花は作れない。そう感じ、園にない古花を集めはじめました。一九九0年くらいからのことで、それ以前から古花の保存を叫ばれていた三池氏や、文通を通して花菖蒲の美しさを語り合った新潟の花友の影響がありました。江戸系は平尾先生がガーデンライフ誌に一九七三年に紹介した「江戸花菖蒲古花一覧」を参考に、古花を保存しておられる花菖蒲園を尋ねたり連絡を取ったりしながら、手元に無い品種を埋めてゆきました。古い品種を保存しておられる園も少なくなっていましたが、こちらの無理なお願いに多くの方々があたたかく協力してくれました。肥後系では満月会会員作の古花に絞り、横浜の西田衆芳園より「玉洞」「滝の瓔珞」ほかの十数品種を譲り受けました。

   それと同時に花菖蒲関係の古文献発掘の作業に取り組みました。その頃社長が解読した「花菖培養録現代語訳」から興味を持ち、国会図書館に収められる二冊の「花菖培養録」原本、その他の写本、また花菖蒲関係の古文献を収集し、未解読なものを翻訳するなかで、花菖蒲の歴史を知り、より花菖蒲の古花、とりわけ江戸系の古花に対する憧憬が深まってゆきました。

「神代の昔」 江戸古花 白地に爽やかな紫脈,芯の紫と目の鮮やかな黄色が丸味のある花を引き締める。粋を専らとした江戸っ子の美意識の結晶。
「特別展 堀切花菖蒲園 葛西花暦」図録,松平菖翁「花菖蒲培養録」,「小高園図譜」,国会蔵「花菖蒲図譜」など,江戸花菖蒲古花の図譜180枚,他同館所蔵の花菖蒲関係浮世絵などが満載された,江戸花菖蒲文化を知る上でたいへん参考になる書籍。

温古知新

   育種改良を方針に持つ会社のコンセプトに反して、古い花の保存に心を向けさせたのは、これらの品種がほんとうに美しいと感じたからでした。古いことばかり言っていても前には進めないかもしれませんが、でも私は、花菖蒲は日本人の心に響くものがあるからこそ今まで支持されてきたのだから、新しいものを創る時も、その部分を決して疎かにしてはならないという考えを、初めから朧げではありますが持っていました。

   古い花は、新花にくらべ一見地味ではありますが、その花を選んだ作者の審美眼や精神修養のレベルの高さは、現代の私たちには到底及ばないものだと思うのです。熊本の古花には、清廉潔白だったと伝えられる菖翁の精神や、その翁の意志を受け継いだ熊本の武士たちの人格の高さが、品格となって花に顕れています。江戸の古花には、粋を専らとした江戸っ子の美学、心意気が花の上に生きています。そうした花々が手本となって、多くの花が生まれてきたから、私たちは花菖蒲に日本的な美しさを感じるのではないでしょうか。古い花の良さを、新しい作品に反映させてこそ「舞扇」のような普遍的な美花が生まれるのなら、古花は決して時代遅れの価値のない花などではないし、ただ保存するだけが大切な代物でもありません。繰り返し何度も何度も見て、自らの審美眼を養うことが、この園芸植物の育種には不可欠だと思います。新花の創作は、この花の発展のために重要です。そして、そのためにも古い花は絶やしてはならないのです。

花菖蒲の発祥を尋ねて

  1995年に葛飾区郷土と天文の博物館で行われた「特別展 花菖蒲」と、そのとき発行された図録「特別展 堀切菖蒲園 葛西花暦」には大変な衝撃を受けました。図録をはじめて手にした時は感動で手が震え、すぐに葛飾の博物館に向かい、編集した学芸員の橋本さんに篤くお礼を言いました。そしてこれを期に、多くの人たちの花菖蒲の品種保存に対する認識が変わりはじめました。自分のしていることはやはり間違っていなかったんだと思いました。多くの方々から譲っていただいた品種を増殖し、保存に関心のある園へ分散させるようにしました。

   さて、古花の品種収集と文献の発掘をしてゆくなかで、浮かび上がってきた大きな疑問がありました。それは菖翁が「あさかの沼の花かつみ」と言ってごまかした、菖翁以前の花菖蒲の発達、そして花菖蒲はどこから来たかということでした。この謎を追って、花友とともに各地のノハナショウブの自生地を探訪し変異個体を探しました。また長井古種の故郷、山形県長井市のあやめ公園や、地元の柿間俊平氏にお願いして、長井古種の発祥とされる飯豊町萩生の自生地などを案内していただいたり、葛飾の郷土と天文の博物館の橋本さんに、実際の安積沼跡などを案内していただきました。

   その結果おぼろげながら判ってきたことは、花菖蒲のはじまりは、全国から変異個体が江戸に集まったと考えるよりは、やはり東北地方にノハナショウブの変異個体が多く自生しており、それが江戸時以前からこの地方の人々にに発見され栽培され、やがて地元の有力者の庭先に集まり、互いに交雑し変異の幅が広がり、それが江戸時代のはじめ頃に江戸に運ばれたのが始まりで、推測ですが奥州を広く治めていた伊達氏が、江戸に持ち込んだのではないかということでした。

   そして、このような研究を続けるなかで、長井古種や原種のノハナショウブの美しさに、さらに惹かれてゆきました。多くの花を見るうちに、目に入ってくる表面的な美しさよりも、その根本にある自然の力、これこそが美しいのではないかと思うようになり、花菖蒲の場合なら、最新の品種や稀少品種でなくても、視覚的には派手さの無い長井古種や原種のノハナショウブで、自分としては十分に楽しめるようになりました。それは、人の計らいが介在していないので、生命そのものの美しさと素直に向き合うことができるからです。

「爪紅」長井古種の一種で,原種の色変わりではないかと言われている。

ノハナショウブ

  1998年のことでした。前年に花菖蒲園に土壌改良の目的でEM菌を散布したところ、春になってリゾクトニア性の立ち枯れ病が大発生して、露地圃場の約六割が枯れ、 全所持品種の約二割が消滅するという大被害が発生しました。友達だった「清少納言」も「伊豆の海」もなくなりました。方々の花菖蒲園や個人の愛好家の方にお願いして入手し、やっとの思いで殖え始めた古花も多く失いました。品種保存のため増殖し、他園に分散させ、貴重な品種を絶やさないようにと取り組みはじめていた矢先のことでしたので、薬を散布しても次々に枯れてゆく姿を見るのがとても辛く、家族を次々に失った自分の境遇と重なり、とても悲しくなりました。人間の傲りに対する自然の報復のように思えました。今思っても全く悪夢のような出来事で、品種保存を通してこの花を守って行こうとした思いが崩れ、喪失感で心に大きな穴が開きました。病害に耐性のない品種の保存が、この場所ではもう不可能だからです。

   そんな気持ちを引きずって、99年の夏に道北のノハナショウブを見に行きました。このことは会報の28号に書きましたが、この頃はもう「植物が枯れる」ということに嫌悪を感じるまでになり、積極的にこの花を発展させなければならない立場にいながら、園芸植物に関心がなくなっていました。そして、道北の原生花園で有史以前からこの地を彩ってきたであろうノハナショウブの大群落を目の当たりにした時、それが花というよりも、自然の生命の現れに感じられました。人の手が加えられたものではない、花も小さい、なのに、この力強さはどうだろう。これで十分じゃないか・・・!
 
 野生種の変異を探すことが目的だったのですが、それが意味のないことに思えました。ありのまま、原野を渡る風に吹かれて咲く姿が、何にもまして美しいと感じずにはいられませんでした。

   現在もこの思いは変わりません。それでも、良い花はやはり美しいと思います。花菖蒲が、単なる視覚だけに訴える花でしたら、当の昔に飽きていたことでしょう。しかし今をもってそうならないのは、この花の持つ奥深さに他なりません。それを見つめる眼を、これからも養ってゆこうと思います。