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横浜市衆芳園での花菖蒲展示 平成2年6月 撮影 |
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葦の浮船系の「池水の綾」1966年作 |
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月 影 1962年作 |
また、栽培方式についても独特で、「メイチュウの被害が多くなったので秋に、葉がまだ青々している間に根元から刈り取ってしまいます。メイチュウは冬の初めに葉から根元に下るから、その前に刈り込むのです。余裕がありませんのでお金を掛けずに対応することばかり考えています」「メイチュウには殺虫剤を千倍でなく、五倍程度の濃いものを散布したことがありますが葉の中に浸透せず、殺せませんでした」「黄縮病には写真現像に使うサンキノンが効くようです」など変わったやりかたを工夫されていました。
昭和35年頃「加茂さん、衆芳園の鉢植え展示を見に行きませんか」と誘われ西田家にご一緒したことがありました。西田幾(ちかし)さんが丁寧に応対して下さり、金屏風の前の「岩戸鏡」が素晴らしく、すっかり感心していると「加茂さん、とてもいい色でしょう。外で咲かせると大した色でなくても中に取り入れ、目いっぱい花弁を広げさせると全く違った良い色になることを知っている人は殆どありません」と言われました。この時、私は光田系さんの肥後系に対する思い入れの深さを覗き得たように思いました。
別なところでは「肥後系は庭では咲き切れないと言いますが私の花は立派に咲きますよ」とも話されていました。しかしそれは苗を売る立場からの発言であり、本心では「部屋に取り込んで咲かせるのが一番よい」と考えておられたと思います。
光田系初期発表花の中には色彩に濁りのある品種があり、庭で咲かせると気になります。しかし部屋に取り込み、大きく咲かせると嘘のように濁りが消え、透明感のある美しい色彩に変わるのです。しかし光田さんはこの濁りを苦にされ、色彩のよいものを発展させることに力を注いだ結果「千姫」「西行桜」などの、形と色彩の両者を併せ持つ名品に到達されました。「赤」は日本よりもアメリカで高く評価され、「千姫系」の本場は今やアメリカが中心となっています。
昭和35年頃に名古屋市名鉄デパート催事場で光田さんが開いた「熊本花菖蒲展」は実に立派なもので、冨野先生も驚嘆されていました。出展された数百鉢はすべて七寸鉢に植えられた力作で、大部分が光田系であり、凄い迫力でした。あんなに見事な展示は後にも先にも見たことがなく、空前絶後と言うべきでしょう。残念ながら犬山パーク内に光田さんが作られた「熊本花菖蒲だけの花菖蒲園」は黄縮病が多発して失敗し、その影響でデパートでの鉢植え展示会も中止となってしまいました。熊本花菖蒲(肥後系)は室内で咲かせてこそ真価を発揮する、ということは実証されたが、利益には結びつかなかったのです。以来30年、今の知恵と力を結集すれば室内花菖蒲展を復活させることが出来るのではないか?光田さんは一人でチャレンジし、あのような盛大な展示を見せてくれたのだから、今の我々に出来ない筈がないのです。
光田さんの赤系色彩は冨野耕治先生の「桜獅子」から来ています。「桜獅子」は冨野先生の伊勢系実生中から突如として現れ、歴史的な役割を果たしたのですがその交配親は冨野先生ご自身も「分からない」と答えられ、不明のままです。光田さんは「稀な突然変異株であり、今までに無かった独特な性質が潜んでいる」と位置付け、十数年にわたる交配追求により「千姫」に到達されたわけであり、そうした「素質ある親株」を見出す「眼力」とそれを生かす「執念」を備えた「達人」であったと言えましょう。
(千姫育種過程は会報二四号参照)
倍数体作出にも三十年間にわたって努力され、種子のコルヒチン浸漬処理法から出発し、晩年には遂に既成品種の倍数体化に成功され、「四倍体舞扇作出」のことは会報二七号にも発表されています。
「葦の浮船」(表紙参照)のことも忘れられません。日本でも各地の花菖蒲園に植えられ、衆目を集めていますがアメリカでは非常に高い評価を得て人気を博し、交配親として珍重され、次々と「葦の浮き船系品種」が生み出されています。濃い鮮やかな紫筋の入る色彩は満月会、衆芳園をはじめ、多くの肥後系育種家たちに嫌われ、意識的に代々抜き捨てられて来たので旧肥後系品種群の中には見られません。白筋はあるが紫筋の花が無かったのです。肥後系では紫筋の色彩を「下品」として捨てるのが習いでした。光田さんは肥後系(熊本花菖蒲)の改良を目指しながらも、敢えて紫筋の色彩を取り入れることで時代に沿い、国際化に貢献されました。
昭和三十七年に発表された「月影」は当時としては破格の高値である一株三千円で売り出され、波紋を呼びました。交配親の一方を伊勢系「桜獅子」としたことによる「伊勢系の垂れ咲き性を初めて取り込んだ熊本花菖蒲」と「砂子」の二点において画期的と自負されたわけですが、これは育種家側からの評価であり、マーケットの側からすればそれほどの価値に見えなかったというギャップがありました。「月影」から十代を経た子孫から「千姫」が誕生したことを思うと、「月影」の三千円は高くなかったのですが、その時としては誰もそのことが分からなかったのです。平尾、冨野の両先生も「月影」および光田系全部が嫌いで批判的でしたから光田さんの評判は良くありませんでした。同じ植物での育種家同士は競争関係にある他、美意識、価値観の差があるので仲がよくないのが普通です。それに、苗を自分自身が販売することを「商売」として卑しめる風潮もありました。日本花菖蒲協会の中においても「協会は趣味家の会であり業者の会ではない」「業者=下品、アマチュア=上品」といった議論、空気があり、光田さんの高価な値段付けに好感を持てなかったのでしょう。アメリカでは育種家自身が苗の販売を行うのが普通であり、コンベンションに参加すると値段の入った自分の品種リストを名詞代わりに配っている人たちがたくさん見られます。日本でも21世紀には光田さんのように、育種家で苗も分譲する人たちが増えないといけません。
特筆すべきは会報第25五号に書かれた「熊本花菖蒲の栽培と育種五十年の歩み」などで詳細に光田系花菖蒲育成の過程、交配記録を公表されていることです。従来の花菖蒲育種家は交配記録を殆ど発表しておらず、残された銘品がどのような交配によって生まれたのか?は、残された断片的な情報から推測するしかありませんでした。育種記録を残し、それを公表されたのは新しく育種を志す人たちにとって非常に大きいことと思います。
会報に書き残された「育種は孤独なものであり、自ら信ずることを黙々と根気よく続けてゆくこと以外何もないということです」と言う光田さんの言葉にはずしりと重みがあり、かけがえのない人材を失った悲しみに耐えません。
合 掌
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