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私の園芸放浪記

  椎野 昌宏


 私の家は横浜山手の一角、竹の丸という所にある。道を隔てて鷺山という町に接し、幕末、一八六十年に横浜村が横浜港として開港された頃は、水辺に近い台地に竹が繁茂し、鷺が飛来するといったような自然環境だったと思われる。 開港後、英国人、フランス人、アメリカ人、ドイツ人の単身赴任者が、当地に居を構え、日本人女性を現地妻、いわゆるラシャメン(洋妾)として、多数住んでいたそうだ。その子孫たちが、戦後まで残っており、若干毛色の変わった日本人が散見された。

 私の生まれたのは、中村町という横浜の下町で、空襲で焼けたため、昭和二十四年に父が当地を買い、移り住んだ。その頃は小作人が麦や野菜などを植えていた。表土はすばらしい黒土で、二メートルくらい掘ると、関東ローム層の赤土となる。
 
 父母は植木が好きで、家の建築記念に植えた1メートルくらいの桜の苗木四本が成長し大木になり、居ながらにしてお花見が出来ると、近所の人に喜ばれた。十年前に娘が家を建てるためのスペースが必要となり、一本をのこして根こそぎ伐採した。 五人の土方が一週間もかけて整理する大仕事であった。気になったので神主を呼んで祈祷、お払いをしてもらい、長年鑑賞の喜びを与えてくれたことに感謝した。

 父母は植木市に行っては色々なものを買い求め、桃、梅、紅葉、花水木、月桂樹などが茂り、一時は小さな樹木園のようになった。そのような環境で育った私は、おのずから植物愛好家となった。一九六十年代から一九七十年代にかけ、私は仕事の関係で約十年間、台湾、米国、に駐在し、日本にいなかったため庭いじりは出来なかったが、帰国後勃然として園芸熱にとりつかれてしまい、まず菊作りを始めた。
 
 私は何でも上手になるには、自己流ではなく、その道の達人に習うのが一番効率的だと思い、横浜菊花会に入会し、近所に住む名人の先輩を紹介してもらった。ご夫妻で菊作りをされており、ご主人が大輪の三本立て、奥さんが小菊の懸崖を得意とされ、私は屡、お宅を訪問し、実地で指導していただいた。秋の品評会にも、おだてに乗り、未熟な段階で出展したりした。然しある年、品評会直前に台風が襲来し、出展候補の鉢が倒れ、三本仕立ての内の、一本の花芽が折れたりして、品評会に出せなかったことがあり、仕事を持つ身としては、室内に取り込み、非難させる暇もなく、私には不向きであると悟り、その翌年から栽培を止めた。もう一つの理由として、品評会前日や直前に、化粧直しと称して、耳かき、箸、ピンセットを使って花の姿を整えるため、花弁を伸ばしたり、摘んだりする作業が、何か自然の姿を歪めている行為に思え、それが嫌いになったことも一因だった。

 その後、園芸店で見かけたさくらそう(Primula Sieboldii)に魅せられ、鎌倉に本拠を置く湘南さくらそう会に入会し、先輩諸氏に芽を分けてもらったり、通販や園芸店から買い求めたりして、品種のコレクターの仲間入りをした。その頃知り合った中嶋克美氏は、その後の私の園芸熱の火付け役となり、色々とご指導をいただいた恩人として、私にとっては重要な人である。同氏は現在、横浜朝顔会の副会長として、大輪朝顔の権威の一人であり、朝顔の世界では知名度の高い人である。また、私が会長をしている横浜さくらそう会の役員で、さくらそうについても造詣が深い。


 さて、前置きが長くなったが、私の園芸歴の核について触れてゆくことにする。私が花菖蒲と縁ができたのは、この中嶋克美氏から分けてもらった、二本の苗がきっかけだった。紅紫の「秋の錦」と純白の「友鶴」で、苗が良かったため、翌年三英大輪の見事な花を咲かせた。その結果、すっかり花菖蒲の緑の葉の勢いと、堂々たる花容に惚れ込んでしまい、さくらそうと同じように熱心なコレクターになってしまった。 日本花菖蒲協会にも入会し、故平尾秀一先生や、加茂さん、三池さんなど、花菖蒲のすぐれた指導者と知遇を得たことも、私の幸せであった。

 花菖蒲もさくらそうも朝顔も、江戸時代に園芸植物として栽培、普及されたものだが、ほぼその原形は出来上がっていた。熱心な愛好家が花連(花の愛好会)を作り、品評会などを行っていた。また、優れた愛好家が、新品種を続々と発表していた。その頃の花連は、入門の資格や規約もなかなか難しかったそうだ。例えば桜草連の場合、入門者は紹介を得て、末広一対に目録を添えて持参し、誓約して連中となる。まず一般的な品種を数種もらい、作り方を教えられ、初伝、中伝、奥伝と進んで、皆伝となるまでには五年以上かかった。途中で会を止めるような時には、もらった苗はもちろん、配合した用土まで返納しなければならなかった。もし、そうしないと、同門の人が押収して帰ったと伝えられている。多分、花菖蒲や朝顔(江戸時代には変化咲きが盛んだった。)などの花連も同じような形で運営されていたと思われる。明治以降にも一部にこのような習慣が残っていたようだが、第二次大戦後は園芸の大衆化が進んで、洋種系の植物もたくさん導入される風潮にあわせて、江戸時代からの伝統花も自由に入手、栽培が出来るようになった。また、米国などに於いても、花菖蒲協会や、さくらそう 協会が設立され、その活動も活発で、国際化への波が広がっている。


 私は現在、花菖蒲を約百五十種、さくらそうを約三百種育てている。日本人として、自国の伝統花を後世に残していくことは大切なことだという意識で、忙しい仕事の合間をぬって頑張っている。さくらそうの植替えが、毎年一月から二月の厳冬期、花菖蒲が梅雨時の六月か七月、帰宅して食後、夜間の庭で、工事場電灯の下で行うことがある。

 さらに、二十年位前から、日本の伝統花に加え、洋種系の植物として、ベゴニアを収集、栽培している。温室も二つ持ったが、平成九年春より家の立て替え工事のため一つを壊してしまい、これまで生育した木立系、根茎系、レックス系のベゴニア約五百鉢の一部を、加茂さんの経営しておられる富士国際花園に持っていってもらったり、また、同好者に差し上げたりして現在は在庫ゼロの状況である。家も完成し、外構工事も近々終わるので、来春からベゴニア栽培を再開するつもりだ。

 ベゴニアでは、根茎性のものが興味の中心で、中南米、東南アジア、アフリカなどから、新しい原種や、米国からの交配種の導入を、日本ベゴニア協会の役員として担当しており、まだまだ日本には未知の品種がたくさんあり、非常に面白い分野である。 花菖蒲、さくらそう、朝顔など江戸時代からの伝統花と、洋種のベゴニアとの取り合わせ。我ながら奇妙な選択と思うが、私の園芸人生の里程であり、これからも放浪を続けていきたいと思っている。